<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
その他の宗教における宿世業(注1)
昨日、みなさんと天(=天界)について語っていた時、以下の事が話題になった:
現代の、いくつかの強大な国家における裕福な人たち、彼らの一日の出費は、緬甸の富豪の一生の支出と同じである、と。
緬甸人が一生使える富を、彼らは、一日で消費してしまう。
彼らは、これほどに裕福であるが、仏教徒である、という事もない。
それゆえ、彼らにはこのような疑問があった:
仏教国の多くは発展途上国である。
これら弱小の仏教国に住む人々は、最も遅れている者であって、我々は、この事実を、どのように解釈すればよいのか?
皆も、思う:本当にその通り!
そして、その後、皆、心内は不愉快になり、もやもやとしてしまう。
しかし、考えてもみて欲しい。
あれら大国の富豪たち、彼らの前前業はどのように造(ナ)されたのであろうか?
彼らにも已作業(過去世において造(ナ)された善業)がある。
私はこう言いたい:
仏陀の本生物語を読んでみて貰いたい。
菩薩は、その時、その地において、波羅蜜を累積していた時、何回の人生において、仏世に生まれ、身は仏教徒であったであろうか?と。
釈迦仏が、黙語王(Temi)であった時、彼は非仏教徒であったが、しかし、彼は多くの功徳を造(ナ)したのである。
また令生王(Janaka)であった時は、彼は又、非常に多くの善業をなしたが、またもや、仏教徒ではなかった。
黙語王の時、彼は非仏教徒ではあったが、道を修し、深い禅定を得ることがあった。
金職人(Suvaṇṇassya)であった時、森の中で慈心を修習したが、その時の彼は、仏教徒ではなかったし、彼の父母も、仏教徒ではなかった。
諜密王(Nemi)の物語の中で出てくるアーラダ梵天もまた、仏教徒ではない。
Vessantarā王は仏教徒であったであろうか?
あの時代、どの法師が、彼のために法話をしたであろうか?誰も法話をする人はいなかったが、彼は外道の行者から、布施・供養を学んだのである。
功徳の実践
身が仏教徒であって初めて、功徳を造(ナ)すものであって、他の宗教の者は、そのような事は実践しない・・・それは本当であろうか?
菩薩は生々世々、その時、その地で波羅蜜を累積したが、その大部分において、仏教徒ではなかった。
というのも、菩薩が波羅蜜を累積する、三大阿僧祇劫の中において、ただ24尊の仏が出世しただけであり、その他の時間においては、生仏にお会いする事が、できないからである。
故に、みなさんに理解して頂きたいのは:
菩薩は非仏世の時代に、不断に波羅蜜を累積した事実がある、という事を。
故に、先ほど話題になった、あれら大富豪は、現代においては、仏教徒ではないかも知れないが、過去の輪廻の内に、彼らは彼ら自身の方式で、功徳を造(ナ)しているのである。
各種の業因によって、臨終の時にこのような境が出現し、彼らは裕福な国家に結生する事になり、かつ、彼らの父母も裕福であった、と言う訳である。
彼らが富豪でありえるのは、彼らの国家が強大である事と、父母が裕福である事と、関係がある。
彼らは、一生使い尽くせないほどの富を擁しているが、それは仏教徒でない事とは、関係が無い。
彼らは、一生使い尽くせない富を擁しているが、彼らは、ただ只管、それらを享受するだけであろうか?
彼らは、彼らの過去世の業習により、彼らは己の財産の一部をもって、病院を建てたりする。
善業!善業!
彼らは、己の資産でもって、貧苦に苦しむ人々を助けようとするが、この種の善の行いは、慈悲から出ているものである。
資金を提供し、力を提供して、学校を支援し、貧困家庭の学生たちが、高等教育を受けられるようにする。赤十字社を組織し、病院を建てる、学校を建てる、発展途上国を助ける。
このような善業、善の力は、薄弱だと言えるであろうか?
これらの人々は、不断に前進しており、もし、弥勒仏出世の時代に、彼らが人として生まれるならば、彼らは、弥勒仏に会う事を、非常に喜ぶであろう;
仏陀に出会えれば、彼らは四聖諦の法義を聞く事ができる。これらの人々がもし、智慧を具備しているならば、聞法するだけで、解脱の道に到達するかもしれない。
また、この智慧は、未来仏(弥勒仏の後の仏)の世の時に、解脱道に到達する為の、資糧になるかも知れない。
こういう事であるから、身が仏教徒である我々は、己を過大評価してはならず、謙虚に努力しなければならない。
仏教徒になりさえすれば、努力を必要としないと言って、出鱈目に日々を送っていれば、他人はすぐに、我々を追い越していくであろう。
緬甸は、小さな国家であり、我々は仏教徒である。今、我々には、少なくとも食べ物があり、凍えてはいない。我々は食べ物によって、色身を滋養し、修行するのである。
我々は、この因縁を善用して、不断に仏法を宣揚し、繰り返し薫習し、他の人々が成熟した智慧を得られるよう、助けなければならない。
(注1)宿世業:過去の生々世々(の輪廻の内)に累積した業。
(4-15につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>