Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》4-15(100/100)翻訳終了

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

仏教徒であり続ける

仏教徒である私は、どのような状況になろうとも、私の信仰を変えようとは、思わない。

食事が貧しくても、裕福になりたいが為、幸福になりたいが為に、私の信仰を変えるという事は、ない。

飲食に関して、余りに貧しくて、油で揚げた豆しかなくても、私は仏教への信仰を捨てて、世間的な幸福を、追求することはない。

我々の一生の支出が、かれらの一日分の出費より少なくても、私は、彼らと交代したいとは思わない。

なぜか?

我々は、世間の真相ーー

生苦(jātipidukkhā)、

老苦(jarāpidukkhā)、

病苦(byādhipidukkhā)、

死苦(maraṇampidukkhā)を見たからである。

我々は確かにこれらを聞いたし、見たのである。

我々はすでに、これら結生の苦、老衰の苦、病の苦を知っている。

彼らはまだ知らないでいる。

たとえ知ったとしても、彼らはそれを、重大事だとは思わない。彼らは、己の身に苦が発生しないように、只管、努力するだけである。

世間には、愛する人と別れなければならない、愛別離苦がある;

嫌いな人と共に住まなければならない、怨憎会苦がある。

我々は、これらの苦に思いを寄せれば、知ることができる・・・輪廻路は久しく留まるものではない事を。

このような認識から、世間に対して厭離智を生じせしめるというのは、外国の大富豪より、更によい生活ではないのか?

彼らには、一生涯、このような智慧は、生起しない。

我々は、常にこれらの智慧が生起する・・・厭離智だけでも、充分彼らを、超越しているのである。

仏陀は言う:

地獄があり、畜生があり、餓鬼がある。

我々は仏陀の話から、本当に畜生がいることを知る。

そして、我々は、畜生が畜生であるのは、彼らの過去世における悪業が原因であり、それゆえに、今生は畜生に生まれたのだ、ということを信じる。

しかし、外国の大富豪たちは、信仰がない為に、これらの事柄を信じる事はないし、地獄も信じない。

しかし、今、彼らは鬼(=幽霊)の事は信じ始めたようだ。

ただ、未だ確信を持てず、概念はモヤモヤしていて、納得はできていない。

彼らはいまだ、懐疑の内にあるが、我々は、《吉祥経》、《発趣論》を理解できる段階にまで来ている。

彼らは、歩み始めたばかりではあるが、しかし、彼らは必ず、我々の後に付いてくる。彼らは、鬼がいる事を信じ始め、人の死後の、次なる生について、考え始めている。

とは言え、彼らは歩み始めたばかりである。

我々は《発趣論》を研究している段階である。

双方の間の、この距離は、非常に大きなものがある。

また、私が功徳を造(ナ)す時は、必ず涅槃(nibbāna)の事に思いを致すが、彼らが病院を建てる時、涅槃の事までは、思わない。

彼らの運が良ければ、未来において、仏に会う事ができる。

我々はどうであろうか?

斎食の供養であっても、我々は功徳を回向し、涅槃の資糧(nibbāna paccayo hotu)とする。みなさんも、目標を涅槃の所縁において頂きたい。

涅槃とは、仏陀の般涅槃の涅槃(parinibbāna)であり、シャーリープトラ、モッガラーナの涅槃である。しっかりと覚えて置くべきは、我々の最終目標は、涅槃である事である。

あれらの大富豪は、これらの真相を知らないし、また聞いた事もないであろう。

彼らは毎日、己のしたい事をして、食べたいものを食べる。しかし、我々はすでに、涅槃の楽を知っており、出来得れば今生において、涅槃を現証したいと思い、一切の功徳はみな、涅槃の資糧とするのであるから、我々は彼らより、高級なのである。

この高級なレベルの内にあって、我々は更に一歩進んで努力し、純正な善士になり、一切の時、一切の地において、一切の悪法から、遠く離れる事(+が要請される)。

我々は、彼らのような物質生活を享受する事は出来ないが、しかし、我々には慧眼がある。

我々は喜ぶべきである。

我々は彼らより早く、涅槃を見ることができる。

以上によって、《発趣論》に関して、理解しなければならない部分について、我々の理解は相当に進んだ。これらの法義に対する認識を踏まえて、みなさんが常に、己の心を正しく修することのできる人間、勇猛精進できる人間になるよう、祈願する。

Nān āppakāraṭhānāni、bodhit ānettha muninā、

Anantanayapaṭhānam、vande anantagocaram。(ママ)

礼賛

この甚だ深遠なる《発趣論》の内に、無上なる牟尼と称せられる大覚世尊は、因縁、所縁縁等の諸法によって、遍知一切知智を証得した後、一切の衆生にも、これらの法義を理解させんとした。

私は一生のうちにおいて、この得難い殊勝なる想に出会う事が出来た。

誠心稽首して、無辺なる智慧を具する仏智に礼拝して初めて、広大で甚深である《発趣論》に遊ぶ事ができる。

(翻訳終了)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>