<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
適切な専注の対象を一つ選択し、心を整えて、この類の仕事をするということは、非常に重要な事である。
一般的に、私は入門的な念誦の詞を決め、それへの不断な持念によって、それを錨の一種とするのを推薦する。
こうする事によって、禅修行者は、非常に早く入定することができる。
もし、禅修行者がただ、<今・ここ>における知覚にだけ専注し、念誦詞をもって錨としないならば、修行の成果は、時には好く、時には悪いという風になる。
これは、心の覚知(+力)が非常に微細なため、念住の強固な基礎とする事ができないためである。そうであれば、心は非常に早く、瞬く間に煩悩に誘惑され、妄想と干渉の中に見失ってしまう事になる。
(1-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>