Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~マインドフルネスの誤解

先ほど、IT を見ていましたら<マインドフルネス>という言葉が目につきました。

ベトナム戦争の時、アメリカはタイに基地を作りました(タイは中立国でしたが、アメリカに土地を貸したのです)。その時、戦争遂行の任務の間に、休暇を貰った一部分の兵士は、帰国休養の権利を放棄して、タイの僧院を訪ねて、タイの僧侶から、瞑想を学びました。

ベトナム戦争終結後、これらの人々がアメリカに帰還した後、テーラワーダ仏教で<正念>(サンマ・サティ)と呼ばれている概念を、<マインドフルネス>と英訳して、アメリカに広めました(勿論、何かが流行るのに、源流・ルートがただ一つだけ、という事もないとは思いますが)。

私は英語が苦手なので、<正念>が<マインドフルネス>と訳された事自体が、適切であったかどうか、よく分かりませんが、その後、<マインドフルネス>が、<よく気が付いている事>と言う風に理解されて、現今、世間に流布されているのは、少し違うように思います。

<正念>の正確な定義は、<瞑想の対象を忘れない事>です。

あなたの瞑想の業処(所縁)が安般念(出入息)なら、眠っている以外の時間、出入息を忘れないで、心を出入息に留め続ける事が<正念>であり、<正念の保持>です。

今、私は喜んでいる。今、私は悲しんでいる。今、私は妄想している・・・などと、己の心の動きに気が付いているのを<正念>、すなわち<マインドフルネス>だ、という風に説明する人がいますが、それは間違いです(今、私は妄想している、のを知っている事=<覚知>)。

妄想を止めて、己の業処に戻り、心を業処に留まり続けさせる事、すなわち<業処を忘れない事>が<正念>の本来の意味です。

もし、元々、<マインドフルネス>に<業処を忘れない事>という意味が含まれないのならば、これ以上の誤解を避けるために、何か別の、適切な訳語を考える必要があるかも知れません

追記:<正念>が、<マインドフルネス>と訳され、またそれが、<己の心の動きに気が付いている事>とされたために、弊害が出ています。

この手法で瞑想する方が、己の心の動きを追い続けて、「自分の心は、なぜこれほど汚れているのか」と己を責める様になり、ノイローゼになる人もいる、と聞きました。

心が穢れているのはお互い様、それよりも、過去と未来への妄想を切って、正念を育て、定に入る修習をするべきです。<今・ここ>に、感慨や追憶などは、含まれないのです。)

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>