<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
私は迫られるようにして、改めて修行を開始した。
今回は、先に、一つのしっかりとした、礎になる杭を決めた。
どのような事が起こっても、私はそれをしっかりと握りしめて、手放さないようにした。
その杭とは ”仏陀”ーー仏を憶念する事であった。
私は念誦の詞として決めた ”仏陀” を、唯一の専注の対象とし、私は、己自身の心内において、繰り返し ”仏陀” と念ずる事を保持するように迫り、他の一切の事柄は、遠くへ排除した。
”仏陀” は、私の唯一の禅修行の対象となり、同時に、念住を保持して、それが修行を引導するように(+心を)保った。
進歩だとか退歩だとかの考えは、すべて後ろに放り投げ、生起する事柄は、生起するままに任せた。
私は、古い思惟のパターンの中に沈潜することのないように、決意を新たにした:
過去を回想するーー私の修行は、あれほど順調に進んでいたーーこのように崩れ去った(などを思惟しない);
未来を幻想し、強烈な願望でもって、成功に導かれるよう期待し、過去の満足感に浸るような事はしなかった。
これより先、私はただ只管、目標に到達する事だけを期待し、目標を実現するために条件を設定した後、それが実現しない故に失望を繰り返す、というようなことは、しなかった。
実際、期待自体が成果を齎すという事はなく、ただ、念住を保持して修行する事だけが、成果を齎すのであった。
今回、私はしっかりと、祈願した。
どのような事が起ころうとも、私は、それに振り回される事はない。進歩だの、退歩だのを心配する事は、ストレスの根源であり、それは、私をして、<今・ここ>と、眼前のなすべき仕事に、専注できなくさせるだけである。
念住を保持して、”仏陀” を繰り返し念誦する事によって、修行の浮き沈みを防止することができる。
心を<今・ここ>の覚知に集中させる事は、今の私にとっての急務であり、私は二度と再び、妄想が私の禅修行を妨害するのを、許さなかった。
誠心誠意、一切の苦を滅し去るために実践する所の、禅修行において、あなたは、修行のそれぞれの段階ごとに、全身全霊をかけて、己を投入しなければならない。
もし、あなたが、何らかの成就を得たいのであれば、己のすべてをかけて、それを実践せねばならず、些かの留保もあっては、ならないのである。
最も高度なサマーディを体験し、最も深い智慧を証得しようとするならば、あなたは散漫であってはならないし、いい加減であってもならない。
もし、修行の原則をしっかりと捉まえる事ができないのならば、永遠にふわふわとして定まることがない。
思い切りよく、修行に打ち込む事を決意しないのであれば、あなたは、一生涯をかけて修行したとしても、何等も得る事はないであろう。
始まりの段階において、一つの適切な禅修行の専注対象を選択するという事は、あなたの心の錨とすることができる。
ただ、随意・気ままに、不鮮明な対象に専注してはならない・・・たとえば、心内に存在しつづける覚知などを、対象としてはならないのである。
特定の専注の対象(+を定める事)によって、あなたが、あなたの心を止め置くことがないならば、あなたは、あなたの心が、外に向かって漂い出すのを、止めることはできない。
これが失敗の禍根である。
最後には、あなたは失望によって、修行を放棄してしまうであろう。
(1-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>