Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

痛みの始まりにおいて、私の手と足と背中の疼痛は、電気で焼かれているようであったが、しかし、これはまだ、ただの序の口に過ぎなかった。

疼痛が極点にまで到達した時、四肢百骸は、燃え盛る火の中に放り込まれたように痛んだ。

すべての骨、すべての関節は、燃料を撒かれた、燃え盛る火に飲み込まれたようであった。

身体の骨の一本一本は、皆砕かれて、粉々になったようであった。私の首の骨は折れてしまって、私の頭は、地面に落ちたかと思った。

身体のあらゆる部分において、同時に激痛に襲われ、余りの痛さに、息もできないくらいであった。

危機において、念住と智慧も無策であったが、私は、痛みの根源に深く潜り込み、最も強烈に痛む部分を探し出した。

念住と智慧は、痛みの最も激しい部分を探り、観察して、それを隔離した後、しっかりとこれを観察したいと思った。

”この痛みの根源はどこにあるのだろうか?

誰がこの痛みを受け入れているのだろうか?”

彼らは、一つ一つの痛む部位に対して、この問題を問いかけた所、一つ一つの部位には、ただ、それら自身の特徴が存在しているに過ぎない事が、分かった。

皮膚は皮膚、筋肉は筋肉、腱は腱、以下類推すれば同様であって、(+私が)出生して以来、かれらはかれらそのままであったのである。

また別の角度から見ると、痛みはある種の時間帯において、行ったり来たりしており、筋肉や皮膚のように、そこにじっとしているという事は、なかった。

通常、痛みと身体はほぼ一体であるはずであるのに、しかし、真実は異なるようであった。

内に向かって専注すると、私は身体のそれぞれの部位は、真実の物体である事を確認することができる。

真実、そこに存在している。

私が、身体内部の一塊の痛みを探すとき、ある一点では、他の場所より痛みが強烈であることが分かった。

もし、痛みと身体が一体であるならば、そして、身体の各部位は同様に真実であるならば、どうしてある部位の痛みは、その他の部位より、なお強烈に痛いのであるか?

私は一つ一つの部位を分解して、隔離する事にした。

観察していると、念住と智慧はお互いに分離できないものであって、それらは痛みの部位をスキャンすると同時に、最も激烈な痛みの部位に至っては旋回し、不断に、感受を身体から分離して、引き離した。

(+念住と智慧は)身体を観察した後、快速に疼痛に注目する為に転移して行き、その次(+に観察の対象になったの)は、心であった。

この三種:

身体、疼痛と心が、主要な観察の対象となったのである。

身体の疼痛は激烈ではあったが、私は、心は静かであって、(+疼痛の)影響を受けない事に気が付いた。

身体がどのような強烈は不具合に遭遇しようとも、心は決して干渉を受けないし、心が折れる事もなかった。

この事は、私の興味を引き起した。

通常、煩悩は疼痛と結合して、その後に、この結合体は、心をして、身体の疼痛と混乱を受領せしめるのである。

この事は、智慧による、身体の本性、疼痛の本性、心の本性への探索を引き起したが、それは、三者が異なる真実であるという事が、はっきりと分かるまで続いた。

一つ一つの真実は、各自各々の領域を持っていたのである。

私ははっきりと見た。

心は、感受に、疼痛と不快感という定義を与える。

そうでなければ、疼痛はただ一種の自然現象に過ぎず、それは身体の一部ではなく、心の中にあるのでもない。

この道理が明らかに鮮明になった時、疼痛は瞬時にして消失した。

その時、身体はただの身体ーーそのこと自体(=三者)は、分離した真実であったのである。

疼痛はただの感受であり、一瞬に感受した後、心から消えてしまう。

疼痛が心から消えてしまうと同時に、心は、疼痛がすでに消え去った事を知るが、その消失という事柄は、何等の痕跡も、残さないものであった。

色身が、覚知から消え去った。

あの時、私は身体に対して、完全に意識を向けていなかったが、単純な調和と覚知のみが、そこに独自に存在していた。

ただそれだけであった。

心は精緻で微細で、その程度は、形容しがたいほどであるが、それはただ、知っているーー一つの内在する所の非常に精緻な覚知が、(+全身に)満ち満ちている事を。

身体は完全に消失した。

色身はそこに座り続けてはいたものの、しかし、私は全くそれを意識する事はなかった。

疼痛も消え去り、身体の感覚もなかった。

ただ心の、知るという、根本的な特性のみが、存在していて、あらゆる思想、考えが停止して、意識においては、ただ一つの念頭(=考え、発想)さえも、生起することはなかった。

思想(=考え)が停止した時、最も微細な毛筋ほどの波動もなく、内在する平静は、干渉を受けず、心は、不動揺のまま、何等の揺るぎもなく、独自に存在していたのである。

(1-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>