<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<疼痛感とはただ感受の程度が不断に波動し揺らぐ自然現象に過ぎない>
我々がそれを、己個人が背負い込み、己自身の負担にしないならば、それは心にとって、特別な意味を持たない。
疼痛自体、その本質は、何等の意味も意義をも、もっておらず、心に影響を与えることはない;
色身もまた、その本質において、何等の意味も意義も持たない。
それは感受に対して、または個人に対して、何等かの意義や意味を齎す事はないーー当然なことながら、心が介入して、特殊な意義や意味を添加し、添加する事によって生じた苦でもって、己自身を焼こう等とは、しないならば。
外部に存在する因と縁は、我々に苦を創造したり、苦を齎したりする事はないが、それを、心が造りだすのである。
朝起きて、私は言葉では言い表せない程の勇猛さと大胆さを感じ、己自身の非凡な経験に驚嘆した。
私の修行において、これと比較できるような体験は、これまでにした事がなかった。
心は、どのような関心をも引き起す関係性を、徹底的に断じ除いて、真正なる勇気でもって、内部に向かって、凝集して行ったのである。
私の全面的な、辛苦の観察を通して、それは集中する事によって、荘厳なる定になった。
それが退出したとしても、今なお勇気が充満し、死ぬことに対して、無畏となった。
今私は、正しい観察の技巧を知った。
故に、私は次回、再び疼痛に出会ったとしても、恐れないであろう事を、知っている。
畢竟、疼痛は同様の性質を保持し、色身もまた同じ色身であり、私が応用する所の道具もまた同じ、智慧であった。
故に、私には、疼痛を恐れず、死ぬことを恐れないという気持ちが現前したのである。
ひとたび、智慧が、何が死亡して、何が死亡しないのかという真正なる本質に覚醒したならば、死ぬ事は、かくも平凡な事柄になったのである。
頭髪、爪、歯、皮膚、筋肉、骨:
これらのものが、それらの原本である本質に戻ったならば、それらはただ地大にすぎない事が分かる。
地大は、これまで、死んだ事があるだろうか?
それらは分解されるとき、一体何になるのであろうか?
身体のすべての部分は、元々の元素に戻る。
地大と水大は、それらの本来の属性に戻って行き、風大と火大もまた同様であって、消滅させられるものは、なにも無い。
これらの元素は、聚合して躯体になり、心はその内において、安住する。
心ーーこの幻想の大師ーーは、躯体に駐み込んで、その後にそれに生命を吹き込み、次には、それをもって自我を形成する。そして、その結果、我々は、大きな風呂敷、大きな負担を背負い込む、という訳である:
”これは私、これは私のもの”
心は、その全体を己自身に所有されるものとするが、この錯覚によって、己自身に対して、無尽の灼熱する苦痛を齎すのである。
心自体が、真正なる首魁であり、禍の元であって、あの一塊の物質元素は無関係である。
身体は、不断に波動し揺らぎ続けているものの、我々の安寧に脅威を与える敵ではない。
それは一つの独立した真実であり、ただ、内在する因と縁に従って、自然に変化しているだけである。
唯一、我々がそれへの認識を間違えた時にのみ、それは己の負担となる。
これがまさに、我々がなぜ、身体の疼痛と不快によって、苦を受けるのかという答えである。
色身は、我々に苦を受けさせたり、苦を齎させたりはしないが、我々は、己自ら進んで、苦を受けているのである。
このことから、我々は、外部の因と縁は、我々に苦を齎せ得ない事が分かる。
我々自身が、物事への錯誤した認識を持ち、その誤認が痛苦の炎を齎し、我々の心を燃やすのである。
私ははっきりと悟った。
死ぬものはなにもない事を。
心は絶対に死なないだけでなく、実際には、それは更に明晰になる。
もし我々が、さらに全面的に四大を観察し、それらを分解して、それらを、それらの元々の属性に戻してやれば、心は更に突出して明確、明晰化する。
どこにおいて死亡が見つかるのか?
何が死亡するのか?
四大ーー地、水、火、風ーーそれらは死なない。
心に至っては、それが死ぬことなど、あるはずもない。
それは更に明確、明晰になり、覚知と洞察力を持つ。
この、知るという根本的特性は、決して、死ぬことが無い。
そうであるのに、なぜそれほど、死を恐れるのか?
己自身が己自身を騙している、それだけである。
無量の劫以来、それは絶え間なく己自身を愚弄して、死が存在すると信じているが、実際には、死ぬものなど、一つもありはしないのである。
(1-18につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>