<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
心が、この顕著な特徴に、深々と覚醒した時、疼痛は徐々に消失する。
同時に、我々は、疼痛の体験及び、それに執着する所の ”私”、その両者の根本的な関係性に対して、覚醒する事となる。
この関係は、心の内部において打ち立てられた後に、外部に向かって展開していき、疼痛と身体に至るものである。
疼痛に関する真正なる体験は、心と、心が深く執着する所の自我から来ており、かつ、それによって引き起される生理的疼痛から、情緒的・感情的痛苦が誘発される。
修行する時、我々は全面的な覚知を保ち続け、疼痛感に追随する事によって、その源に至る;
専注する時、我々が観察する所の疼痛は、収縮し始め、ゆっくりと心内に回収される。
実際には、心が、我々をして執着せしめる事によって、疼痛をば、個人の問題にしてしまっている事を、一たび、明確に覚醒するならば、疼痛は消失する。
それは完全に消失して、心の、知るという特徴だけが、独自に存在する(+事が分かる)。
また、疼痛の外部的な現象は、引き続き存在するかも知れないが、しかし情緒的・感情的な執着は、すでに解除されているが故に、それは二度と、疼痛としては経験されない。
それと心とは、異なるレベルの真実であり、両者は相互に、影響し合う事はない。
心が、疼痛に対して執着しなくなったその時から、あらゆる関係はすべて切断され、心の根本ーー知るという特性ーーのみが残って、不動揺のまま静かに、五蘊の疼痛の中に存在する。
その時、疼痛が如何に激烈であろうとも、すでに、全くもって、心に影響を与えることはできない。
ひとたび、智慧が、心と疼痛は真実ではあるものの、それぞれが分離した真実であるという事に、明確に覚醒する事が出来たならば、両者は、二度と再び、お互いに衝突し合うという事が無くなる。
身体は、一塊の物質に過ぎない。
疼痛の時に存在した身体は、疼痛が去ったあとも依然として、そこに保持されている。
疼痛は、身体の本質を、変えることはできないし、身体もまた、疼痛の本質を、変えることはできない。
心は、疼痛が生起する事、非常に短時間留まる事、消失する事の本質を知っている。
しかし、心の能知(=知る者)としての真正なる核心は、身体や感受のように、生起したり滅し去ったりなどしないーー心の能知は、安定しており、不変なのである。
この種の状況の下、疼痛はーー如何に激烈であろうともーー心に衝撃を与えない。
激烈な疼痛が生起しても、あなたは、微笑んでいられるーーあなたは、微笑んでいられるのだ!
というのも、心とそれは、分離されが故に。
それは、覚知し続けるが、しかし、二度と再び、感受に介入する事はなく、故に苦を受けないのである。
(1-23につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>