Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心が、この顕著な特徴に、深々と覚醒した時、疼痛は徐々に消失する。

同時に、我々は、疼痛の体験及び、それに執着する所の ”私”、その両者の根本的な関係性に対して、覚醒する事となる。

この関係は、心の内部において打ち立てられた後に、外部に向かって展開していき、疼痛と身体に至るものである。

疼痛に関する真正なる体験は、心と、心が深く執着する所の自我から来ており、かつ、それによって引き起される生理的疼痛から、情緒的・感情的痛苦が誘発される。

修行する時、我々は全面的な覚知を保ち続け、疼痛感に追随する事によって、その源に至る;

専注する時、我々が観察する所の疼痛は、収縮し始め、ゆっくりと心内に回収される。

実際には、心が、我々をして執着せしめる事によって、疼痛をば、個人の問題にしてしまっている事を、一たび、明確に覚醒するならば、疼痛は消失する。

それは完全に消失して、心の、知るという特徴だけが、独自に存在する(+事が分かる)。

また、疼痛の外部的な現象は、引き続き存在するかも知れないが、しかし情緒的・感情的な執着は、すでに解除されているが故に、それは二度と、疼痛としては経験されない。

それと心とは、異なるレベルの真実であり、両者は相互に、影響し合う事はない。

心が、疼痛に対して執着しなくなったその時から、あらゆる関係はすべて切断され、心の根本ーー知るという特性ーーのみが残って、不動揺のまま静かに、五蘊の疼痛の中に存在する。

その時、疼痛が如何に激烈であろうとも、すでに、全くもって、心に影響を与えることはできない。

ひとたび、智慧が、心と疼痛は真実ではあるものの、それぞれが分離した真実であるという事に、明確に覚醒する事が出来たならば、両者は、二度と再び、お互いに衝突し合うという事が無くなる。

身体は、一塊の物質に過ぎない。

疼痛の時に存在した身体は、疼痛が去ったあとも依然として、そこに保持されている。

疼痛は、身体の本質を、変えることはできないし、身体もまた、疼痛の本質を、変えることはできない。

心は、疼痛が生起する事、非常に短時間留まる事、消失する事の本質を知っている。

しかし、心の能知(=知る者)としての真正なる核心は、身体や感受のように、生起したり滅し去ったりなどしないーー心の能知は、安定しており、不変なのである。

この種の状況の下、疼痛はーー如何に激烈であろうともーー心に衝撃を与えない。

激烈な疼痛が生起しても、あなたは、微笑んでいられるーーあなたは、微笑んでいられるのだ!

というのも、心とそれは、分離されが故に。

それは、覚知し続けるが、しかし、二度と再び、感受に介入する事はなく、故に苦を受けないのである。

(1-23につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>