南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

身体が分解されて、本来の元素に戻る時、腐乱する自然な過程を観察する。

腐乱と分解は、有機的な一切の生命の、自然な過程であり、あらゆるものは、それらを構成する所の元素に戻るが、最後には、その元素もまた、分離・分解する。

智慧をして、壊滅者とならしめ、心眼に替わって、腐乱と分解の過程を想像し、肉とその他の軟体組織の分解に専注し、それらが徐々に分解して、骨以外、何物も残ることのない様を、観察する。

その後に、再度、身体全体を再生・構築して、再び観察を開始する。

毎回、直覚(=直感)なる智慧をもって、身体を壊滅させ、心内において、再びそれを元の状態に戻して、再び同様の修習を実践する。

この修行は、一種猛烈な心霊的な訓練であり、高度な熟練と気力が要求される。

その成就は、修行において使ったエネルギーと密集の程度が反映される。智慧が純粋に熟せば熟すほど、心はますます光明に輝き、清らかで明晰で、力があるものとなる。

心の清らかさと明晰さと力の度合いは、どこまで行っても尽きる事がないーーそれの速度と活発さは、人をして驚嘆させるものである。

この段階において禅の修行者は、身相に執着する事の弊害に覚醒し始め、潜伏する危険をば、明晰に見て取れるようになるため、強烈は緊迫感を覚える。

そしてそれ故に、ますます修行に励むよう、己を追い立てるようになる。

彼らが、直前まで執着していた、比類なき尊さを認めていた所のーー人をして愛慕させ崇拝させる所のーー身体は、今では、ただ一塊の、深い嫌悪を催す、腐乱した骨にしか見えない。

智慧の力を通して、死んだ、腐乱した一つの身体と、生きて、呼吸する所の身体は、突然、同じ一つの死体となって、双方に何等の違いもない(+のだという事が分かる。)

あなたは、何度も何度も観察し、心を訓練しなければならない。あなたの智慧が、高度に熟して、応用が利くようになるまで。

どのような形式の推測も、憶測も、避けなければならない。

観察する時、あなたは何をなすべきか、その結果に、どのような意味があるのかという(+先主的な)見方・立場の干渉を、受けないようにするべきである。

智慧が見せてくれる所の真相に、専注するだけでよく、己自身の上に、真相が顕現せしめるようにする。

智慧は、進むべき正しい道筋を知っているし、それが明らかにする所の真相を、はっきりと明晰に、理解することもできる。

智慧が、身体のある側面に関する真相に対して、堅く信じることができたならば、その後において、自然にこの側面への執着を、捨棄することができる。

心は、それより以前、どれほど専注して観察してきたかにかかわらず、ひとたび、真相が絶対的に明らかになった時、非常なる満足を覚えるものである。

身念住の、ある種の方面における真相に覚醒したならば、その方面に対して、これ以上深入りする必要はない。

そのため、心は、その他の方面を観察しようとして転移し、その後にその他の方面においても(+更に修習を続ける事によって)、最後には、すべての疑惑は解消するのである。 

この種のモデル、様式の中で奮闘する時、高度な専注力によって、不断に身体内部における、<今・ここ>の本質に、深く分け入って探索するのであるから、必ずや、強大な覚知を維持し続けなければならない。

また密集して努力する為に、代価が要求される。

疲労を感じた時、経験を積んだ禅者は、本能的に、心はサマーディに入って、休息しなければならない事を、察知する。

彼らは、すべての観察を放棄して、心を一境に置いて、決然と負荷を捨て去り、清凉で、安寧と静けさ、人をして力を回復せしめる所のサマーディに入る。

このように、サマーディは(+前述の事柄とは)まったく別の、修行形態なのである。

心は、静かな一境性の定の中において安住し、何等の念頭(=考え、発想)も(+生じる事無く、故に)、その能知(=知る者)の根本的特性に、干渉するものは、何もない。

心が、全面的な静止の中に浸透する時、身体と外部世界は、暫定的に覚知から消失する。

心が一度満足したならば、それは己自身によって、正常な意識にまで退出してくる。

この時、念住と智慧は、飽食して、充分に休息した人のように、精神は渙発として、また再び仕事に戻ることができる。

その後、明確な目標をもった決心を伴って、サマーディの修行は傍らにおいて置き、智慧の修行を再開するのである。

この種の修行のモデルとしては、サマーディとは、智慧に対して、卓越した支援を与えるという位置づけとなるものである。

(1-30につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>