『阿羅漢向・阿羅漢果』1-30
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<身体を思惟することの重要性>
我々の主要な欲望は、みな身体と関連・結合している。
我々の周辺を、見まわしてみよう。
我々は、性欲をしっかりと掴み、人体をば、狂ったかのように貪恋する世界を、見ることができる。
禅の修行者である我々は、己自身の淫欲からの挑戦に向き合わなければならない。この問題は、性欲に対する愛染が非常に根深く存在する所の、執着から来ているものである。
禅の修行をする時、この雑染は、修行の進歩を妨げる、最大の障碍になる。
我々は、身体の観察に深く分け入れば分け入る程、益々明確に見えてくるものがあるが、どのような形式の煩悩であっても、淫欲ほど強烈に心を障碍するものはないし、心に対して、どれほど強大な力を加えているものか(+ということが分かる)。
この執着は肉体から来ているが故に、その本質を明らかにすることは、徐々にではあるが、心の肉体への粘着から来る束縛を、解除することができる。
淫欲の対治において、最もよい方法は、身念住である。
身念住の修行の成功の可否は、心の淫欲に対する(+反応の)軽減によって、量る事ができる。
一歩また一歩と、智慧は、身体の真相を明らかにするが、その過程において、根深い執着を切断し、打ち壊すことができ、心境をば、徐々にではあるが、更に自由にせしめ、又、解放・開放せしめる。
それらの意義・意味を、真正に、徹底的に明らかにしなければならず、禅修行者は、己自身でもって、これらの成果を、体験しなければならない。
もし、私がこれらを描写して見せるならば、副作用を齎すかもしれないーーそれらはあなた方に、無益な期待を齎すが故に。
これらの成果は、完全に、禅修行者の心中に生じるものであって、かつ(+その内容は)、個人の個性と気質によって、それぞれ異なるものである。
ただ、全面的に、注意力を修行の因の上に置けばよく、修行の果は、自ずと熟せしめるべきである。
それらが熟する時、あなたは、これは自然の道理である事を、心の底から理解するであろう。
(1-31につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>