南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<身体を思惟することの重要性>

我々の主要な欲望は、みな身体と関連・結合している。

我々の周辺を、見まわしてみよう。

我々は、性欲をしっかりと掴み、人体をば、狂ったかのように貪恋する世界を、見ることができる。

禅の修行者である我々は、己自身の淫欲からの挑戦に向き合わなければならない。この問題は、性欲に対する愛染が非常に根深く存在する所の、執着から来ているものである。

禅の修行をする時、この雑染は、修行の進歩を妨げる、最大の障碍になる。

我々は、身体の観察に深く分け入れば分け入る程、益々明確に見えてくるものがあるが、どのような形式の煩悩であっても、淫欲ほど強烈に心を障碍するものはないし、心に対して、どれほど強大な力を加えているものか(+ということが分かる)。

この執着は肉体から来ているが故に、その本質を明らかにすることは、徐々にではあるが、心の肉体への粘着から来る束縛を、解除することができる。

淫欲の対治において、最もよい方法は、身念住である。

身念住の修行の成功の可否は、心の淫欲に対する(+反応の)軽減によって、量る事ができる。

一歩また一歩と、智慧は、身体の真相を明らかにするが、その過程において、根深い執着を切断し、打ち壊すことができ、心境をば、徐々にではあるが、更に自由にせしめ、又、解放・開放せしめる。

それらの意義・意味を、真正に、徹底的に明らかにしなければならず、禅修行者は、己自身でもって、これらの成果を、体験しなければならない。

もし、私がこれらを描写して見せるならば、副作用を齎すかもしれないーーそれらはあなた方に、無益な期待を齎すが故に。

これらの成果は、完全に、禅修行者の心中に生じるものであって、かつ(+その内容は)、個人の個性と気質によって、それぞれ異なるものである。

ただ、全面的に、注意力を修行の因の上に置けばよく、修行の果は、自ずと熟せしめるべきである。

それらが熟する時、あなたは、これは自然の道理である事を、心の底から理解するであろう。

(1-31につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>