<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
全身に遍布・浸透する意識流は、それ自身の所へ退くようにして戻って行き、かつ、聚集して、高くて深いサマーディに入る。
この道理は明晰・明確に、見て取ることができる。
その時、躯体全体は、ただ一塊の物体と化すーーそれは、一つの樹木の切株のようなものである。
心が、サマーディから退出してくると、意識・覚知は、身体に戻って行って、四肢・百骸の一つひとつの部位に、拡散し、遍布する。
覚知と知る能力は、心ーー身体ではないーーの基本的な機能である。
この段階における禅身体者が、正常で、明晰な、目覚めた意識状態にある時、能知(=知る者)は全面的に、己自身を覚知していて、心と知覚が、時間性を超越する事、永遠の同一的核心であるを覚知するが、物質の元素は、それを覚知することはできない。
サマーディの内において、身体は覚知から消失してしまうが、しかし、覚知自体は永遠に消失することはない。
実際、これは自然の不変の道理である。
そうではあるものの、煩悩が心に浸透する時、それらはすべてを自我ーー私、または私のものーーとして、きつく握りしめるが故に、個人における真正なる本性と、それが賦与した所の生命の六根とを混同してしまう。
これが煩悩の本質である。
智慧は、まさに正反対である:
それははっきりと、身体とは何であるかを知っており、かつ、この誤った知見を、修正する。
煩悩は永遠に、身体を強く握りしめて、人をして身体は、個人における、非常に特殊な部分であると、信じせしめる。
智慧は、身体をば、一つの普遍的な物質の合成体であると見做し、かつ、それゆえに、それによる一切の自我への執着を捨棄する。
脳の説明をしよう。
それは一塊の物質であり、脳は、ただ、人類の意識の道具に過ぎない。
心が安寧と静けさと、定の深い境地に進入した時、通常は、全身に遍布している覚知・意識は、同時に全身の各部位から集中的に、胸の中間部分に聚集する。
能知の特質は、この一点において、顕著に顕現するが、それはしかし、脳から流露したものではない。
記憶と学習の機能は、脳と関係があるものの、しかし、真相に対する直接的な知見は、却って、脳とは関係がない。
一歩一歩、初歩的なサマーディから修行して、経験と理解の段階まで来ると、もともとすべての事柄は心の中で発生している(+という事が分かる。)。
これが真相のありどころであり、正しく修行している禅修行者は、修道における歩みを、一歩また一歩と、了解することができる。
一切の法の真相を理解するという事について、脳は必要とされないーーそれは根本的に役に立たない。
心の安寧と静けさ、光を放つ特質は、心の内において体験されるが、それらは明らかに、この位置(=胸)から流露するのである。
心のあらゆる方面において、最も粗いものから、最も微細なものまで、みな明確に、この位置から流露している。
また、すべての雑染の影響が、最後に心から滅し去られる時、それらもまた、ここにおいて消失するのである。
(1-38につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>