南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-37(40/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

全身に遍布・浸透する意識流は、それ自身の所へ退くようにして戻って行き、かつ、聚集して、高くて深いサマーディに入る。

この道理は明晰・明確に、見て取ることができる。

その時、躯体全体は、ただ一塊の物体と化すーーそれは、一つの樹木の切株のようなものである。

心が、サマーディから退出してくると、意識・覚知は、身体に戻って行って、四肢・百骸の一つひとつの部位に、拡散し、遍布する。

覚知と知る能力は、心ーー身体ではないーーの基本的な機能である。

この段階における禅身体者が、正常で、明晰な、目覚めた意識状態にある時、能知(=知る者)は全面的に、己自身を覚知していて、心と知覚が、時間性を超越する事、永遠の同一的核心であるを覚知するが、物質の元素は、それを覚知することはできない。

サマーディの内において、身体は覚知から消失してしまうが、しかし、覚知自体は永遠に消失することはない。

実際、これは自然の不変の道理である。

そうではあるものの、煩悩が心に浸透する時、それらはすべてを自我ーー私、または私のものーーとして、きつく握りしめるが故に、個人における真正なる本性と、それが賦与した所の生命の六根とを混同してしまう。

これが煩悩の本質である。

智慧は、まさに正反対である:

それははっきりと、身体とは何であるかを知っており、かつ、この誤った知見を、修正する。

煩悩は永遠に、身体を強く握りしめて、人をして身体は、個人における、非常に特殊な部分であると、信じせしめる。

智慧は、身体をば、一つの普遍的な物質の合成体であると見做し、かつ、それゆえに、それによる一切の自我への執着を捨棄する。

脳の説明をしよう。

それは一塊の物質であり、脳は、ただ、人類の意識の道具に過ぎない。

心が安寧と静けさと、定の深い境地に進入した時、通常は、全身に遍布している覚知・意識は、同時に全身の各部位から集中的に、胸の中間部分に聚集する。

能知の特質は、この一点において、顕著に顕現するが、それはしかし、脳から流露したものではない。

記憶と学習の機能は、脳と関係があるものの、しかし、真相に対する直接的な知見は、却って、脳とは関係がない。

一歩一歩、初歩的なサマーディから修行して、経験と理解の段階まで来ると、もともとすべての事柄は心の中で発生している(+という事が分かる。)。

これが真相のありどころであり、正しく修行している禅修行者は、修道における歩みを、一歩また一歩と、了解することができる。

一切の法の真相を理解するという事について、脳は必要とされないーーそれは根本的に役に立たない。

心の安寧と静けさ、光を放つ特質は、心の内において体験されるが、それらは明らかに、この位置(=胸)から流露するのである。

心のあらゆる方面において、最も粗いものから、最も微細なものまで、みな明確に、この位置から流露している。

また、すべての雑染の影響が、最後に心から滅し去られる時、それらもまた、ここにおいて消失するのである。

(1-38につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>