Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~翻訳の醍醐味

これまで、どれほど中国語の仏教書を日本語に翻訳したでしょうか。<菩提樹文庫>に収録されたもの、収録されていないものを含め、結構な冊数になると思います。

きっかけは、20世紀の終わりに、パオ・セヤドーの『智慧之光』(中国語版)に出会った事。

あまりの衝撃~無常・苦・無我についての考察と、それを座禅・瞑想で確認する方法論が、これまで聞いたことのないレベルで書かれていた~に我を忘れて、翻訳したものです(パオ・セヤドーは、「翻訳より修行の方が大事」と言って、私が『智慧之光』を翻訳して、WEBに載せる事に、あまり賛成されませんでしたが。)

今、『阿羅漢向・阿羅漢果』を翻訳していますが、その内容に吃驚仰天。

これまで、阿那含の定義は、色々読んでいましたが、今一つ腑に落ちませんでした。

『阿羅漢向・阿羅漢果』の中で、アチャン・マハー・ブーワ曰く:

阿那含は、もはや、心に、影像・イメージを映さない」

「故に、欲貪、淫欲は滅し去っている」

どうやら、私たち凡夫は、何かを見たり聞いたりすると、心にイメージを映すようなのですね(そして、そのイメージを、実在しているものと誤解して、貪欲一直線)。

それは、本来素粒子で出来ていて、瞬時に生・滅しているもの(空なる存在)を、「あ、これは椅子だ」とか「あ、これは机だ」とか、確固とした一つの塊として受け取り、思考し、判断しているのは、己自身の意識の働きによる、のですね。

ああ、難しい。

素粒子物理学を読めば、アビダンマが分かり、アビダンマを読めば、素粒子物理が分かる・・・ならいいのですが・・・高校時代、私は物理赤点だったんです・・・^^;

それでも、仏教書を翻訳する醍醐味は変わりません。

ただ、頭でっかちの耳年増になりそうで、ちょっと心配(笑)。

   <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>