<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
この光明は、各種の煩悩が聚集して形成されたものであり、明晰・明確に認知される光明点である。
それはひとつの、非常に精緻・繊細な光明であって、心の内の特定の一点に集合する。
ひとつの、相応する所の、精緻で繊細な暗淡(=薄暗がり)が時ならず生起して、この光明の中心を暗くさせるが、同じような形式で、微細な苦を浮き上がらせる。
実際は、光明と暗淡は、同じ硬貨の両面であり、両者は共に世間的事実である。
このレベルにおいては、光明、暗淡と苦は、全員同じ輩であって、同時に浮上し、顕現する。
こういうことが原因で、心が、この奇妙な光明を体験している時、この体験がいつ何時変化して破壊されるのかと恐れて、それは常に、小心翼々としている。
念住と智慧は、暗淡に打ち消されないように、この光明を保護し、かつ維持する。
いかに微細であろうとも、この汚点は、なおも煩悩の兆しなのである。
故に、禅修行者は、ここにおいて自己満足に陥る事無く、最大の恒心でもって、智慧を用いて、心中の光明におけるこれらの微細な変化を観察しなければならない。
(1-44につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>