『阿羅漢向・阿羅漢果』1-47
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
それの本性が、はっきりと、明確に知られるまで、鋭利で、直接的な智慧によって観察すれば、この現象は、完全に予期していなかった方式でもって分解され、崩壊する。
この時の開悟は、”菩提樹下の証悟” または ”輪廻の墳墓の徹底的崩壊” と言うことができる。
そして、全くの疑いの余地の無い、証悟と確信が生まれる。
光明の中心が分解されたその刹那、ある種の、更に非凡なるーー過去においては、無明によって覆い隠されていたものーーが、暫くすると、全面的に顕現してくる。
心の中において、それは、強烈な振動が、宇宙全体を、揺らしているかのように、感じられる。
心が一切の世間的事実の相から分離されたこの重要な一刻、描写する事が難しい震撼と、荘厳が存在する。
まさにここ、ここにあるーー無明が最終的に消滅するその一刻ーー阿羅漢道は、阿羅漢果に転化する。
道がすでに、円満に完成する時、すなわち、阿羅漢の果位を、証悟したのである。
法と心は、すでに円満を証得した。
その時から、すべての問題は滅し去った。
これが涅槃の本性である。
我々が想像していた、あれほど人をして敬慕・畏怖、驚嘆させる所の本質が、最後に分解された時、ある種の不可思議が、全面的に生起したが、その本質は、徹底的な清浄であった。
それと比較してみるに、我々がかつて、あれほど敬慕・畏怖し、緊密に執着していた無明は、まるで牛糞のようであり、無明によって覆い隠されていた所の本質は、純金のようであった。
どのような幼児であっても、牛糞と黄金のどちらが貴重であるかは、分かるのであって、故に我々は、今頃になってみっともなく、その両者を比較する必要もないのである。
無明の分解は、阿羅漢道と阿羅漢果が同時に、それらの終着点に、到達する事ができるのだ、ということを現している。
たとえば、階段を登って、部屋に入るのを例にして比較するならば、片方の足が、部屋の中の地面についていて、もう片方の足がいまだ階段の上にあるのであれば、我々の両足は、いまだ部屋に入った、とは言えない。
唯一、我々の両足が、しっかりと部屋の地面を踏みしめた時、我々は初めて、”家に到着した” と言える。
心の両足が、至高で、無上の法の上に、しっかりと根付いた時、それが ”法の証し” である。
涅槃の殊勝さを証得し、証悟したその時から、心は、徹底的に自由になる。
それは二度と、煩悩を滅し去るための活動をしない。
これは阿羅漢果:阿羅漢の果位である。
それは唯一、煩悩からの解脱者ーーあれら有余涅槃を証得し、かつ生きている阿羅漢--によって体験されるのである。
色、受、想、行と識に至っては、それらはただ、同時に生起し、滅し去る状態、自然的現象にすぎず、如何なる方式をもってしても、心を攻撃したり、心を汚染したりする事はできない(+事が知れる)。
色、声(音)、香、味と触もまた同様で、それらは各自各々の事実であり、それらの存在は、すでに心に、問題を齎すことはない。
これより以前、無明が心に対して、錯誤的な認知を引き起させていたが、今、心は、無明より解脱した。
今、心は、真相を十分に覚知して、それはそれ自身が知っている真相を知っていると同時に、また、内外における、一切の自然現象の真相をも、知っている。
それらは、それぞれに、別々の真実を擁しており、それ以前にあった、彼此の間の矛盾は、二度と存在しなくなり、それぞれが、各々己自身の道を歩むようになった。
この段階において、煩悩と心の間の、長期に亘る衝突は、すでに過去のものとなったのである。
このように真理が明白になると、心は五蘊の生と死に対して、二度と憂慮したり、危惧したりしなくなった。
心はただ、五蘊の活動ーーそれらがどのように生起し、どのようにお互いに影響を及ぼし合い、どのように滅し去るのか、また、最後の死亡の時、それらがどのように分離するのかを、認知するだけである。
心の、知る、という根本的特性は、永遠に不死であるが故に、死を恐れる事はない。
死亡がやってきた時、彼は死亡を受け入れる;
生きている間、彼は生命を受け入れる。
両者は同一の真理の、二つの側面なのである。
(1-48につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>