<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<心の観察の終り>
このレベルに到達すると、心は永遠に、生と有を切断し、徹底的に、一切の無明と貪愛の顕現を、切断する。
”無明の縁によりて行あり”ーー根本的な無知が、有為の生起を形成するーーそのような境地は徹底的に滅し去り、かつ溶け去った。
それは ”無明の滅する時、行滅する” ーーにおいて滅せられーー縁起の離散・消滅は、苦の聚を滅するーーに取り替えられた。
無明が滅し去った後、苦を齎す縁起もまた滅し去り、それらは、心の、知るという特性の中で、消失した。
五蘊の構成の元となる縁起、たとえば想は、引き続きそれの領域内で運用されているものの、しかし、二度と苦を齎したりはしない。
それらは二度と、煩悩の汚染を受ける事無く、ただ心理的な活動を構成して、運用されるに過ぎない。
識は、心の中から生起するが、単純で純潔なため、苦を生じせしめない。
”識の縁によりて名色あり。名色の縁ありて、六処あり。六処の縁ありて、触あり。”
一切の感官の媒介と、それらの所縁による触は、ただそれらに内在する所の特性に従って、自然に発生する現象である。
それらはすでに ”純大苦聚滅” の仕事を完成させた心に、マイナスの影響の類を、生じさせる事はない。
無明と、すべての煩悩が滅し去る時、それらは心内において、滅する。
無明の消滅は、生死輪廻の消滅を意味しており、両者は必然的に心内において消滅する。
というのも、無明ーー心は、輪廻世界の核心であり、また、生、老、病、死の核心でもある。愛欲は、無明を主要な推進力として、生、老、病と死の根源であるがーー しかし、それは心内にのみ存在するのである。
無明が最終的に崩壊し去って、永遠に心の内において切断された時、徹底的な消滅が訪れる。
心は、これより以降、自由になる。
広大無辺の空、界もなく、垠もないーー徹底的に広々としていて、制限もなく、障碍もなく、一切の矛盾もまた、消滅する。
心は知っている、
それはただ、真理をのみを、知っている;
それは見る、
それはただ、真理のみを、見る。
これが真正なる、空(クウ)である。
(1-49につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>