Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-50

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一切は自我を隠匿している事、自我の存在は本質的な表現である事、これらは皆、無明の作用による。

これら表現の存在は、真正なる無明がいまだ原住所から一歩たりとも、動かない事を意味する。

(+我々が実践する)一切の観察は、すべてこの問題(+を解決する為)である。

この自我とは能知者(=知る者)である:

この自我は、理解し了解することの出来る者である。

この自我は放光し、輝いていて、楽しいものである。

”私” と ”私のもの”--真正なる無明は、ここにおいてこそ、ある。

一切は、それのために為される。

ひとたび、それが最終的に崩壊したならば、自我の認識もまた、それと共に去って行く。

ものごとは依然として進行するが、しかし、誰かのために進行する訳ではない。

これはちょうど、底の抜けた缶のようである:

どれほど多くの水を入れても、一滴も残ることはない。

思想(=考え)と意見は、蘊の自然な功能として、引き続き生起し、また滅し去るが、しかし、何らかのものが心に粘着する事がない。

というのも、あの、それらを盛るための器ーー無明ーーは、すべて破壊されたが故に。

一つの念頭(=思いつき)がこの一瞬に生起するが、次の瞬間には滅し去る。

というのも、それらを盛るための器、盛るためのものが存在しないし、また、それらへの所有権を主張する者もいないが故に、念頭は、ただ通過して、後に消滅する。

自我が、徹底的な空(クウ)であると知る時、その本性は、徹底的に満足する。

この本性とは、真正なる絶対的清浄であり、一切の負担・重荷から、徹底的に解脱している。

心の真正なる本性が、無明によって、かくの如く、完璧に覆い隠されている時、真正なる心の、あの不可思議で、微妙なる神奇を見る事ができない。

無明の陥穽と偽装は、これほどまでに巧みで、禅の修行者は、この段階に来るや否や、みな、愚弄され、催眠によって、これが心の、真正なる神奇である、と信じ込んでしまう。

彼らはそれ程までに、それを大切にし、一切の代価を惜しむ事なく、それを守り、維持しようとする。

実際、本質的に、それは、彼らの真面目であり、この人をして驚嘆させる所の光明は、彼ら自身に属するものである。

(1-51につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>