<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
真正なる無明の内側には、多くの、殊勝で神奇なものの焦点が隠されているーー我々が想像もできないものが。
これら、人をして汚染されうる要素は、ちょうど、少量でも十分に動物を殺す事のできる、毒餌と同じである。
概念化された事実でもって、無明の中に隠された、あの汚染の要素を譬え話としても表現する方法を見つける事ができない為、私はただ、簡単な説明だけ、したいと思う。
これらの要素は、以下のようなものを含む:
存在する一つの光明。それはそれほど殊勝で、最終的な果証のように見える:
一つの、最も殊勝な快楽の感受。心に浸透する所の、光明の力を源として、世間的実相における領域全体を超越したかのような感受:
一つの、決して打ち壊される事のない感覚。それほど堅固で、それに影響を及ぼすものなど、何もないと感じるほどの感覚:
この発光する本質に対して、貴重だと思う気持ち、保護したいという執着の気持ち、それを純金のようだと思ってしまう気持ち。
無明ーー心はまるで一切の功徳を擁しているよう(+に錯覚する):
それは光明であり、それは無畏であり、それは比類ない程自足しており、また、それの能知(=知る者)の品質は、無限のように思える。
しかし、それは(+己自身が)想像できる所の、一切を知る事ができるものの、この能知の特性は、己自身を知る事はなく、これこそが、真正なる無明の、根本的無知である。
ひとたび、この能知の特性が、翻って己自身を見るならば、無明は崩壊する。
この崩壊の発生は、心の真相、法の真相の発露である。
過去においては、無明がこの実相を覆い隠して、見させないようにしていたのである。
いまだ真正に、智慧の領域において成熟していない禅修行者は、無明から離脱するのには、困難が伴う。
というのも、一般的な無明と、真正なる無明は、完全に異なるが故に。
一般的な無明の本性は、一切の虚妄の、異なるレベル・局面であり、外部も内部も含まれた、一つの心理的汚染に統合されるものである。
我々が譬え話として話す時、それは葉、細い枝、枝、幹の統合したものである、と表現される。
一方、真正なる無明とは、倒された樹木、すべての枝が取り払われた樹木のようなものである。
言い換えれば、不断の努力によって、智慧が、無明の外部的に存在する末端の枝葉の活動を切り取って、徐々にではあるが、それが茂らないようにする事によって、それは圧迫されて一点ーー心ーーに聚集する。
この時無明は、それが全盛であった時期に、使いだてしていた(+反動的)仲間を、二度と擁することはなくなった。
この時、我々は真正なる無明を発見する。
無明の枝は、各種各様で、その他の心理的汚染の一切は、それの細枝と分枝に過ぎない。
我々は、枝に専注して、根源を粗略にし勝ちである。
故に、実際に無明に到達した時、我々は混同して、かつ、それを認知することができない。
それはちょうど藤の蔓のようで、一か所から成長するが、地面に沿って四方に伸びて行く。それは不断に四方に向かって蔓延すると同時に、上に向かっても這い進み、ますます枝分かれして、伸びれば伸びるほど、絡まって、何が何だから分からなくなる。
我々は、藤の蔓をしっかりと握りしめると同時、根の方向に向かって、それに付き従って行き、最後には、主幹を見つけ、ここにおいて、根を探し当てるべきである。
根を見つけ出して、その全体を引き抜いたならば、それは、死ぬ。
(2-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>