南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

 阿羅漢の証し:阿羅漢はなぜ泣くのか?

      アチャン・マハー・ブーワ尊者2002年6月17日の開示

<私は>非常に正直にあなた方に言う:

私はすでに、二度と再び、過去も、現在も、未来も、経験しない。

というのも、私の心は、すでに、いかなる世間的相対的実相も、残留していないが故に。

私はあなた方に、もはや(+心内に)、どのようなものも残してはいない事を、保証することができる。

これは仏世尊の法における、煩悩を滅する力である。

法は、心の中にあり、煩悩もまた、心の中にあって、法と敵対する。

我々は、まさにその真ん中に挟まれて、この衝突から生じる所の、善と悪の果報を、受け取っている。

これは、我々が心に属しているが如くであり、また、心もまた、我々に属しているようなものである。

法は我々を護持し、救済してくれる:

我々の敵、すなわち煩悩は、我々を圧迫し、鞭で打って、我々をそれに屈服させる。

二者は同じ場所ーー心ーーから生起する。

禅の修行を通して、法は、徐々に、充分な力を獲得して、内在する煩悩ーー最も粗いものから、最も微細なものまでーーを攻撃して、打ち負かすーーそして、その後に徹底的にそれを心の中から追い出す。

これが、我々が言う所の、煩悩によって生じる純大苦聚が滅せられた、のである。

苦の滅は、無上の快楽(=楽しみ、喜び)の出現であり、すなわち、至高で無上なる法の生起であり、それは法の光明が、煩悩によって覆い隠されて、光を発することの出来ない場所において、発生する。

最近行った開示では、私は涙を流しながら、この重大な体験を思い出していた。

証悟が発生した時、私の心は、はっきりとそれを知ることができたが、最近の因と縁の変化によって、私はそれを公開して、検討する事にした。

法が己自身を顕現する時、その衝撃は、非常に強く、力があり、四方八方へと湧現し、それに触れる一切に、深々と影響を与えるが、それは心理的影響だけではなく、生理的影響までも及ぼす。

たとえば、涙が零れる。

法に接触した時、涙は強烈に流れ出てくる。

問題は、宇宙全体に存在する衆生は、煩悩によって、束縛されている事である。

答えて頂きたい:

この世界において、誰が、法の実相を見たことがあるか?誰一人としていない。

故に、アチャン・マハー・ブーワが公衆の面前で涙を流しているのを見たならば、彼らは吃驚してしまう:

彼に何が起こったのか?

もし、彼が徹底的に煩悩を消滅させて、阿羅漢を証得したのであれば、なぜに、これほどひどく泣く事があるだろうか?

おお!

見ましたか?

これらの人々は、阿羅漢の涙を誤解している。

あなた方は、理解できますか?

あなた方の内、人の身体の一つひとつの部分は、すべて世間的真実である事を、理解している人はいますか?

それらは皆心と関連していているが、心もまた、それらに責任を負うものである。

ひとたび、心ーーそれらの管理人ーーが崩壊したならば、その敵、この世間的真実もまた、粉々に砕け散ってしまう。

その後、心は、心の純潔で清浄なる本性が、己自身のの本質に従って、大いなる光明を発するのである。

これがあの時の体験の一部分である。

(3-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>