Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

もう一つ、別の面について:

同一の時間において、共鳴と、強烈な生理的反応が生じて、身体が震える。

この震えは、故意であろうか?

違うのである。

それは、法が、煩悩を一撃に絶命しようとしていて、それに対して、永遠に心から離れるように迫る所の、抗う事のできない力によって生じる結果なのである。

この驚天動地の出来事は、強大な衝撃を齎すーー宇宙全体が振動して、揺れる。

それは法と煩悩との永遠の分離であり、相対的実相の世界と、絶対的解脱の世界とが、最終的に分離した感覚なのである。

清浄なる法の本性は、それを体験する所の心の中において、それの、無上の荘厳さを、徹底的に顕現する。

心と密接な関連がある為、(五蘊の)身・心は、この震撼と、特殊な体験に対して、反応を生じせしめる。

心の真正なる本性は、永遠に存在しているが、しかし、以前とは異なった方式でもって、己自身を身・心において、展開し顕現する。

その以前、これまで有り得なかった体験が、強大な衝撃を齎した。身・心の蘊は世間的真実であり、心が運用するために用いる道具である。

心が崩壊する時、<今・ここ>において顕現する所の、清浄なる本性は、完全に影響を受ける事のない状態を維持する:

しかし、身・心の蘊ーー無常・苦・無我によって、厳しくコントロール(制御)されている蘊ーーは、強烈な影響を受ける。

影響から生じた反応は、蘊の内において生起しては、その後に消失る。

これは蘊の本質の無常性の反映である。

心の清浄なる本性は、生じることなく、滅することもない。

これが、二者の異なる点である。

(3-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>