『阿羅漢向・阿羅漢果』3-4
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
五蘊は絶対的に、かつ一つの例外もなく、ただの世間的真実に過ぎない。
それに反して、清浄なる本性は、すでに完全にーー100%ーー世間的真実の、すべての痕跡から、解脱している。
故に、二者は、混同され得ないし、混同される事も無いし、(+双方がお互いに)完全に隔絶されているのである。
それらは、各々が、各々の場所において、相対的な反応を起すだけである。
清浄なる本性は、突然、己自ら、絶対的解脱の位置に踊り出る。
無始以来、どの様な時代であっても、すべての人間の五蘊は、この世間的真実の上において、維持され続けてきた。
証悟の後、仏と阿羅漢は、五蘊の運用を停止するために、それらを破壊しようなどとは考えない。
たとえば、笑う事。
笑いは、五蘊の内の自然な作用の内の一つである。
ちょうど、涙を流すのと同じ様に。
この二者は、みな、五蘊がそれらの状況に合わせて、生じせしめる作用である。
我々の身体が、適切な健康を保持している限り、それらは適合する作用を選択して、運用することができる。
たとえば、我々が、地でもって、レンガ、石灰、石、砂、鋼などの建材を造り出すようにーーこれらが、地から来るのでなければ、一体、どこからやって来ると言うのであろうか?
我々が、これらの基礎的な建材を擁する時、我々は、どのようなものも建築することができる。
人々は一体どうしたのであろうか?
あなた方は、精神に異常を来したのであろうか?
それを私は聞きたい。
私は、法の名において批判されて、涙を流す。
しかし、あなた方の内、誰が、法の清浄なる本性を見ただろうか?
以前の私は、それを見たことがなかった。
私の先祖もまた、仏法を修行した事がなかったし、至高で無上なる法を見た事も無かった。
私は一人の修行僧であり、私は私の修行に乗っ取って、私があなた方に説明した所の方式に従って、一段、また一段と、不断に知識と智慧を証得して行ったのである。
私はこの様な修行方式によって、最後には、最高レベルの証悟を得ることができた。
今、この証悟は、それ自身の方式によって、己自身を顕現するのである。
(3-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>