南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』3-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

五蘊は阿羅漢ではなく:阿羅漢は五蘊ではない。

五蘊は絶対的に、かつ一つの例外もなく、ただの世間的真実に過ぎない。

それに反して、清浄なる本性は、すでに完全にーー100%ーー世間的真実の、すべての痕跡から、解脱している。

故に、二者は、混同され得ないし、混同される事も無いし、(+双方がお互いに)完全に隔絶されているのである。

それらは、各々が、各々の場所において、相対的な反応を起すだけである。

清浄なる本性は、突然、己自ら、絶対的解脱の位置に踊り出る。

無始以来、どの様な時代であっても、すべての人間の五蘊は、この世間的真実の上において、維持され続けてきた。

証悟の後、仏と阿羅漢は、五蘊の運用を停止するために、それらを破壊しようなどとは考えない。

たとえば、笑う事。

笑いは、五蘊の内の自然な作用の内の一つである。

ちょうど、涙を流すのと同じ様に。

この二者は、みな、五蘊がそれらの状況に合わせて、生じせしめる作用である。

我々の身体が、適切な健康を保持している限り、それらは適合する作用を選択して、運用することができる。

たとえば、我々が、地でもって、レンガ、石灰、石、砂、鋼などの建材を造り出すようにーーこれらが、地から来るのでなければ、一体、どこからやって来ると言うのであろうか?

我々が、これらの基礎的な建材を擁する時、我々は、どのようなものも建築することができる。

人々は一体どうしたのであろうか?

あなた方は、精神に異常を来したのであろうか?

それを私は聞きたい。

私は、法の名において批判されて、涙を流す。

しかし、あなた方の内、誰が、法の清浄なる本性を見ただろうか?

以前の私は、それを見たことがなかった。

私の先祖もまた、仏法を修行した事がなかったし、至高で無上なる法を見た事も無かった。

私は一人の修行僧であり、私は私の修行に乗っ取って、私があなた方に説明した所の方式に従って、一段、また一段と、不断に知識と智慧を証得して行ったのである。

私はこの様な修行方式によって、最後には、最高レベルの証悟を得ることができた。

今、この証悟は、それ自身の方式によって、己自身を顕現するのである。

(3-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>