南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心は、輪廻を構成する、真正なる根本である。

それは、有情が不断に輪廻する所の、本質である。

心は、輪廻の扇動者であり、また、生死を相続せしめ、(+我々をして)流転せしめる、主要な駆動者でもある。

輪廻して、不断に流転するというのは、有情が不可避的に業力の支配を受けて、不断に生死して止まない為である。

心は、業力に支配されるが故に、業力に使役されて、恒常に流転して、生死する。

心が継続して業力の統治をうけている限り、状況は各の如くであって、変わる訳がない。

唯一の例外は、阿羅漢の心であって、彼の心は、完全に業力の主宰を超越しており、同時に、彼は、徹底的に、一切の世間的相対を、超越している。

いかなる世間法も、阿羅漢の心を、干渉する事は出来ない。

阿羅漢の境地において、心は、一切から出離している。

ひとたび、心が徹底的に清浄である時、それは、唯一、己自身に内在する所の、本性によってのみ覚知するようになる。

ここにおいて、心は、それ自身における最高の境地を証得する事が出来るのであるが、それは、この絶対純粋、清浄なる境地において、円満に証得するものである。

この境地において、一期の生命が、もう一つ別の一期の生命へと、引き継がれていく所の輪廻は、止息する。

この境地においては、あの止まることを知らないかの如くに、高レベルの生命から、低レベルへの生命へと堕落して、また再び上昇し、不断に生、老、病、死を遍歴する所の輪廻は、止息する。

なぜ、この境地において、輪廻が止息するのか?

それは、通常、人の心に浸透していて、それを不断に輪廻せしめる所の、覆い隠された雑染による因・縁をば、すでに徹底的に滅し去った為に、後に残ったのは、純粋で清浄なる、二度と再び、生死を遍歴しない心であるが故である。

もし、心が、いまだこのレベルに到達しないのであれば、輪廻は避ける事ができない。

ある種の人々は、死後の輪廻を否定し、またある種の人々は、頑迷にも虚無主義を主張して、死後、生命が継続する可能性を否定する。

しかし、信仰は、事実を変えることはできない。

一人の人間の意識における、知る、という根本的特性は、推測に主宰される事はなく、また、個人の観点や意見によって、影響を受けることもない。

それは一つの、己自身に内在する最も主要な主宰者であり、無上の権威である所の業力と連合して、一切の推測を退ける。

結果、一切の有情は、一期の生命から、もう一つ別の一期の生命に向かうべく圧迫され、粗いもの、たとえば、陸上の、海の、水の中の生命を遍歴する;

微細なものでは、餓鬼、天、梵の生命がある。

後者は非常に微細であって、人の肉眼で見ることが出来ないものであるが、心は、まったくの困難もなく、これらの道に生まれることができる。

その時、必要なものは、唯一、相応する業だけ、なのである。

業力は、決定的要素であり、それは心をして、輪廻の内に、止まる事を知らぬように流転せしめるのである。

(4-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>