『阿羅漢向・阿羅漢果』4-3
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
心は、輪廻を構成する、真正なる根本である。
それは、有情が不断に輪廻する所の、本質である。
心は、輪廻の扇動者であり、また、生死を相続せしめ、(+我々をして)流転せしめる、主要な駆動者でもある。
輪廻して、不断に流転するというのは、有情が不可避的に業力の支配を受けて、不断に生死して止まない為である。
心は、業力に支配されるが故に、業力に使役されて、恒常に流転して、生死する。
心が継続して業力の統治をうけている限り、状況は各の如くであって、変わる訳がない。
唯一の例外は、阿羅漢の心であって、彼の心は、完全に業力の主宰を超越しており、同時に、彼は、徹底的に、一切の世間的相対を、超越している。
いかなる世間法も、阿羅漢の心を、干渉する事は出来ない。
阿羅漢の境地において、心は、一切から出離している。
ひとたび、心が徹底的に清浄である時、それは、唯一、己自身に内在する所の、本性によってのみ覚知するようになる。
ここにおいて、心は、それ自身における最高の境地を証得する事が出来るのであるが、それは、この絶対純粋、清浄なる境地において、円満に証得するものである。
この境地において、一期の生命が、もう一つ別の一期の生命へと、引き継がれていく所の輪廻は、止息する。
この境地においては、あの止まることを知らないかの如くに、高レベルの生命から、低レベルへの生命へと堕落して、また再び上昇し、不断に生、老、病、死を遍歴する所の輪廻は、止息する。
なぜ、この境地において、輪廻が止息するのか?
それは、通常、人の心に浸透していて、それを不断に輪廻せしめる所の、覆い隠された雑染による因・縁をば、すでに徹底的に滅し去った為に、後に残ったのは、純粋で清浄なる、二度と再び、生死を遍歴しない心であるが故である。
もし、心が、いまだこのレベルに到達しないのであれば、輪廻は避ける事ができない。
ある種の人々は、死後の輪廻を否定し、またある種の人々は、頑迷にも虚無主義を主張して、死後、生命が継続する可能性を否定する。
しかし、信仰は、事実を変えることはできない。
一人の人間の意識における、知る、という根本的特性は、推測に主宰される事はなく、また、個人の観点や意見によって、影響を受けることもない。
それは一つの、己自身に内在する最も主要な主宰者であり、無上の権威である所の業力と連合して、一切の推測を退ける。
結果、一切の有情は、一期の生命から、もう一つ別の一期の生命に向かうべく圧迫され、粗いもの、たとえば、陸上の、海の、水の中の生命を遍歴する;
微細なものでは、餓鬼、天、梵の生命がある。
後者は非常に微細であって、人の肉眼で見ることが出来ないものであるが、心は、まったくの困難もなく、これらの道に生まれることができる。
その時、必要なものは、唯一、相応する業だけ、なのである。
業力は、決定的要素であり、それは心をして、輪廻の内に、止まる事を知らぬように流転せしめるのである。
(4-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>