Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》4-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

見妄想(diṭṭhi-maññanā)、

見取(diṭṭhigāha)、

見障礙(diṭṭh-papañca)と

見執着(diṭṭhi-abhinivesa)もまた、

凡夫俗人の着地点であり、支えであり、依止処であり、立脚点でもある。

こうしたことから、もし、彼らが、上に述べた多くの錯誤的な見解を堅持するならば、彼らは、永遠に凡夫の境地から抜け出すことは、できないのである。

「聖地」は、聖人の境地の事であって、この種の高尚なる聖人は、いかなる顛倒をも、持ち合わせてはいない。

究極義でいえば、聖者は正見、正思惟の具足した正念者である。

聖者の心中には、「私の身体の中に、ある種の永恒な、善なる、必要とされる(+ものがある)」等という、錯誤した観念がない。

聖者は正見をもって立脚点としており、故に「正見」はまた、聖地であると言える。

ひとたび、正見を獲得したならば、この個人はすでに「凡夫地」を超越しており、かつ、すでに「聖地」ーー聖者の段階に到達している。

無始以来の、無数の生死輪廻の中で、無数の凡夫俗人は、凡夫地を、歩み続けている。

もし、誰かが「見顛倒」を取り去りたいと思い、かつ「正見」をば、心中に植え付けるのであれば、そしてある日、彼がそれを実践出来うるのであれば、我々は以下のように言うであろう:

あの日、彼は聖地に向かって歩き始め、一人の聖者になったのだ、と。

勿論、ある種の聖者には、「心顛倒」と「想顛倒」の名残りがあるかも知れないが、しかし、彼らは世間において、悪果を造ることになる悪業を造(ナ)す事はない。

というのも、彼らはすでに、大部分の「見顛倒」を、取り除いたが故に。

そして、残りの二種類の顛倒(すなわち、心顛倒と想顛倒)は、彼らに世俗の楽しみを齎すが、これらは、彼らの正当な収入から取り換えられたものである。

(5-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>