南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

《Vipassanāハンドブック》5-6(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この経典から分かる事は、なぜ悲惨な世界に生まれる衆生がいて、彼らはなぜ、人類の生活を過ごすことができないのか、という疑問に関して、その答えは、彼らは、上に向かって望むという事がなく、下に向かって堕ちていくから、と言うのが答えである。

下に向かって堕ちる、とはどういう事であるか?

彼らの無明は、生死輪廻の中にあって、不断に増大し、強化され、まるで下流に向かってまっすぐに流れて、最後に平原に流れ着く河川のようである;

彼らは常に、下に向かう傾向がある。

というのも、彼らには、善道に向かう通路が閉ざされているからであり;

悪道に行く通路は、却って、開かれているのである。

これが、下に向かって堕ちる、という意味である。

故に、目の見えない亀の物語から、智慧ある人は、凡夫(人趣)の罪悪のどれほど深重であるか、恐ろしくて危険であるかを、知らねばならない。

以上が、凡夫趣の話である。

次に、聖趣について説明する。

聖趣は、人の死後、凡夫趣から解脱する事、または、凡夫趣(凡夫趣の中の一つひとつの生命は必ず死亡する)で入滅して後、二度と輪廻しない事を言う。

または、比較的高度な生命状態に生まれる事を言う;

または、個人の選択によって、生まれる所を選択する。

聖趣は、椰子の実が、木から落ちるようなものではなく;

それは、鳥が、空中を飛翔するかのようであって、彼らの住みたいと思う所、または木の上に飛んで行く。

あれら聖人の境地に到達した人、天人と梵天は、比較的良好な場所に生まれることができるし、または、再び人、天人と梵天に生まれることもできる。

彼らがすでに聖人の境地を証悟していて、その生命が終焉する時、彼らは再びどこかに生まれ変わりたいと思うかも知れない。

もし、彼らが意外な出来事によって、急逝して、その時、どこかに生まれ変わりたいとは考えていなかったしても、彼らは必ず、比較的良好な生命の形態に生まれることが出来、また、劣等で不幸な衆生に生まれ出ることも免れる。

その他に、もし、彼らが、また人に生まれるならば、彼らは決して、低い階級に生まれることはなく、馬鹿者としても、外道としても生まれる事も無い。

天人と梵天もまた、このようであり、彼らは完全に凡夫趣から解脱している。

これが聖趣に関する説明である。

(5-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay >