南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

《Vipassanāハンドブック》5-7(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

今、我々は、二種類の趣について、検討したい。

一人の人間が、木から落ちて来る時、それは椰子の実が落ちてくる様に似ている。

というのも、彼は、空中を飛翔する事の出来る翼を持っていないが故に。

もっとはっきり言うならば、人、天人と梵天は、同じく凡夫であり、彼らが邪見で覆われていて、また、彼をば、天上に連れて行く所の依止処・・・八正道の翼がないのならば、彼らは、彼らの肉体が崩壊した時、新しい生命に転生する;

(+その時)彼らは、罪悪の淵に堕ちる事もある。

この世界において、人々が高い木に登って、この木を休息処としたいと思いながら、しかし、彼らが掴んだ枝が折れる時、彼らは地面に落ちてしまう。

彼らは全身が痛み、死亡する。というのも、彼らには樹木以外に休息処がなく、また、空中を飛翔できる翼を持たないが為に。

天人、梵天もまた同じであって、彼らの中に、いまだ見顛倒があれば、ひとたび彼らの身体が崩壊したならば、彼らは凡夫趣に堕ちる。

というのも、彼れらの依止処は、唯一、彼らの身体のみであるが故に;

彼らは、涅槃を彼らの休息処とする事がなく、また、八正道を彼らの強大な翼として、己自身を支える事がない。

小鳥たち、もし彼らの留まっている樹木の枝が折れたとしても、彼らは決して落ちてしまうなどという事はなく、軽々と空中に飛び立ち、もう一つ別の木に止まる。

木の枝は、彼らの永遠の住処ではなく、それは一時的なものである。

彼らは完全に、翼と空気に頼っている。

同様に、人、天人と梵天が、もし、すでに聖者になっていて、邪見がないのであるならば、彼らは己自身の身体を自我(self)と見做さず、また己自身の身体に依存するという事がない。

彼らは永遠に、休息処(涅槃)を擁しているが、その涅槃とは、すべての痛苦・煩悩の完全な止息である。

彼らは、強くて力のある八正道の翼を持ち、それは、彼らをして、比較的良好な生処に連れて行くことができる。

これが二種類の趣の説明であり:

凡夫趣と聖趣の違いである。

(6-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

は、し、った時、る時、