南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

《Vipassanāハンドブック》6-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

同様に、もう一人の人間が:

「真諦によれば、個人は存在しえない。個体の生命も存在していない」と言えば、聞いている者は、この種の言い方を、否定してはならない。

というのも、これは真諦であり、現象界はただ、色法と心法のみが、存在しているのであるが故に。

実際に、個人と個体の生命は、存在していない。

たとえば、人々が、どこかで土を掘り返すとして、その土を塵土に砕き、それらの塵土に水を加えて粘土にし、次に、この粘土でもって各種の鍋、壺、コップを作るとする。

我々は、このテーマを話し合う時、誰かが以下のように問うかも知れない:

「この世界で、土でできた鍋やコップというものはありますか?」

俗諦に基づけば、答えは Yes であるが、真諦に基づけば、No である。

というのも、俗諦では、泥土は確実に存在していて、それでもって鍋などを、作ったのであるから。

この二つの回答の内、前者は解説をしなくても分かる。

というのも、それは、俗的な約束に基づいているが故に。

後者は、少し説明が必要かもしれない。

真諦から言えば、我々が言う所の「陶製の鍋」と「陶製のコップ」は、実際に存在しているのは泥土であり、鍋でもなければ、コップでもない。

というのも、「泥土」というこの詞は、鍋を指さないし、コップをも指ささず、実質を有する泥土を指すが故に。

「鍋とコップ」というこの詞は、泥土の形容に用いられているのではなく、それは鍋とコップの外形からそう呼ばれるのであり、それは一種の形状を伴った概念であり、この種の概念は、塵土を除いて、それ以上分解する事の出来ない、基本的物質である。

それらは、心に顕現した所の特殊な外形、形状に過ぎず、それらは粘土によって作られた器皿の、外形的な概念に過ぎないのである。

故に、真諦に基づけば、「陶製の鍋とコップは存在しない」と言う言い方は、全くの疑う余地もなく受け入れられるのである。

(7-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>