《Vipassanāハンドブック》18-2(F)★
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
心と心所の起因については、三つの事柄が、その生起・生産に、導いている。
すなわち;
過去の業、能縁の根(=縁となり得る根)と所縁境である。
前者は、ちょうど樹木の種の様であり、能縁の根は、泥土の様であり、所縁境とは、雨水の様である。
善、悪、無記の心法の生起は、二つの必要条件がある。
すなわち、能縁の根と所縁境である。
詳しく述べれば、善心所の生起に関しては、如理作意は必要である;
不善心所の生起に関しては、非如理作意が必要である;
知覚作用を伴う無記と善心所の生起は、同様の原因が必要であるが、それは如理作意である。
二種類の識を「転向」(turning towards)と言い、それらが善心所の前にある時、それらは、善心所と同じ起因を有する;
もし、それらが悪心所の前にある時、それらは、悪心所と同じ起因を有する。
ここにおいて yonsomanasikāra( yonso 根源+ manasikāra 作意)は、「根源的な作意」(如理作意)を言い、ayonsomanasikāra は、「根源的ではない作意」(非如理作意)で、これらは、転向(āvajjana)における、二種類の意識の作用だと言われる。
一人の人間において、もし、理智的に思惟し、作意することができるならば、善の意識を生じせしめることができる。
もし、理智的に思惟する事も、作意する事も出来ないのであれば、悪の意識が生起する。
特別な、純潔な外境が、善または悪の意識を生じせしめる訳ではないのである。
心路の過程は、一艘の船に例えることができる。
転向する心(āvajjana-citta)は、舵手であり、故に、善または悪の意識の生起は、完全に、心の転向(āvajjana)によるのである。
(18-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>