南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

《Vipassanāハンドブック》18-2(F)★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心と心所の起因については、三つの事柄が、その生起・生産に、導いている。

すなわち;

過去の業、能縁の根(=縁となり得る根)と所縁境である。

前者は、ちょうど樹木の種の様であり、能縁の根は、泥土の様であり、所縁境とは、雨水の様である。

善、悪、無記の心法の生起は、二つの必要条件がある。

すなわち、能縁の根と所縁境である。

詳しく述べれば、善心所の生起に関しては、如理作意は必要である;

不善心所の生起に関しては、非如理作意が必要である;

知覚作用を伴う無記と善心所の生起は、同様の原因が必要であるが、それは如理作意である。

二種類の識を「転向」(turning towards)と言い、それらが善心所の前にある時、それらは、善心所と同じ起因を有する;

もし、それらが悪心所の前にある時、それらは、悪心所と同じ起因を有する。

ここにおいて yonsomanasikāra( yonso 根源+ manasikāra 作意)は、「根源的な作意」(如理作意)を言い、ayonsomanasikāra は、「根源的ではない作意」(非如理作意)で、これらは、転向(āvajjana)における、二種類の意識の作用だと言われる。

一人の人間において、もし、理智的に思惟し、作意することができるならば、善の意識を生じせしめることができる。

もし、理智的に思惟する事も、作意する事も出来ないのであれば、悪の意識が生起する。

特別な、純潔な外境が、善または悪の意識を生じせしめる訳ではないのである。

心路の過程は、一艘の船に例えることができる。

転向する心(āvajjana-citta)は、舵手であり、故に、善または悪の意識の生起は、完全に、心の転向(āvajjana)によるのである。

(18-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>