Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》21-2(F)(60/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

これらの移動の発現によって、今日、ある種の西洋の人々、たとえば、leibnitz(ママ)とfetiner(ママ)

は、これら色法は、生物であると信じている。

しかし、実際は、それらは生物ではなく、移動の現象は、物理的変化によるものであり、その事によって、色法が再生しているのである。

ここで言う所の再生(reproduction)は、すなわち、いわゆる増生色(ācaya-rūpa)である。

当然の事に、ある種の動物の体内には、生きている衆生が、生息している。

我々が、河また渓流の流れを見る時、またはポットの中の沸騰する水を見る時、我々は、水の流動を見ることができる。

これは、物理的変化によって生じた物質的現象である。

肉眼にとって、静止しているように見える水であっても、顕微鏡で見てみれば、水の移動を見ることができる。

これは物理的変化によって生じた、物質的現象の再生である。

ここにおいて「再生」とは、新しい現象の持続的融合を言い、または、いわゆる増生色(ācaya-rūpa)である。

それが、新しい現象の融合である事を知ったならば、我々は以下のことも知ることができる:

無常色(aniccata-rūpas)と呼ばれる古い現象の、死滅または消失。

新しい事物の融合と古い事物の死滅は同時に発生する時、その相続色(santati-rūpa)は、弁別することができる。

新しい事物が、過度に再生する時、無積集色(apacaya-rūpa)は弁別することができる。

古い事物が過度に死滅する時、老色(jarāta-rūpa)は弁別することができる。

上に述べた様に、我々は一本の樹木、根、枝、葉、芽、花と果実は、皆、五つの明確な相を有する。

このような事から、我々が顕微鏡の支援を受けてそれらを見る時、我々は非常に小さな物体が、行ったり来たりしているのを見ることができるが、それはまるで生物のようである:

実際は、これらは、ただの、物理的変化によって生じた所の事物の再生(reproduction)に過ぎないのであるが。

動物または人体に関しては、この五つの顕著な相は、身体の各部位において発見することができる。

たとえば、頭髪、体毛、指の爪、足指の爪、歯、皮下組織、表皮、筋肉、神経、血管、大きい骨、小さい骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、薄膜(=横隔膜)、肺、腸、内臓、未消化の食物、すでに消化された食物。

我々が、顕微鏡の支援の下において、これらを見る時、我々は発見する:

これら移動する物体は、非常に小さな動物のようである。これらは業力、心、食物と物理的変化によって生じた所の、事物の再生である。

当然、その中には微生物も含まれ得るであろうけれども。

このようであるから、もし、我々が心眼でもって見るならば、我々は明確に身体全体の無常相を見ることができる。

(21-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>