Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》21-3(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心法の方面においては、心と心所がある。

心法の無常相は、二個の明確な特徴があるが、それはすなわち、徹底的な変異と継続生起の変異であり、我々は明確にそれら心法の無常相を見ることができる。

世間では、多くの述語と表現方式があるが、これらの述語と表現方式は、身・心の変化を表現する為に用いられるのであって、身・心の変化は、不断に生・滅しているものである。

たとえば、二種類の表現方式がある。「見える」と「見えない」であり、これは目の機能を語る時に使用される。

「見える」は眼識を形容する詞であり、または「誰それ(+の目)が見える」という時、それは眼識の生起を描写するのに用いられるのである。

眼識の生起は、同時に四つの因が揃わなければならない。すなわち、眼根、可見色(=見ることのできる物質)、光と作意。

我々が「誰それは見えない」という時、これは眼識が無い事を表わしている。夜、暗闇の中で、光源がない時、眼根は眼識を生じさせることができない。この時、眼識は暫定的に作用を停止しする。

ローソクの火が点った時、眼識はそれに伴って生起する。ローソクの火が消えると、眼識はまた作用を停止する。炎には五つの明確な相があるため、もし灯があるならば、物が見えて、視覚も生じるのである。

もし、灯が光っているならば、人は「見」ていて、灯が継続して光り続けるならば、「見」るも継続する。もし、灯の光が衰退したならば、「見」るも衰退する。もし灯が消えたならば、「見」るもまた停止する。

(21-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>