<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
白昼、この二つの詞:「見える」と「見えない」は、使われるに違いない。
もし、障礙がないならば、ある人は見える:
障礙があるならば、ある人は見えない。
瞼は、開けば見えるが、瞼を閉めていたならば見えない。
眼識の変異と継続生起は、特定の因と光を具備して、初めて生じることができる。
眼根が破壊されたならば、眼識は永遠に生起しない。
もし、可見色が、視野の外に取りだされたならば、眼識も停止する。
睡眠する時、作意ができない為に、眼識は一時的、一定期間、にその作用を停止する。
心の認知に関しては、非常に多くの、異なったタイプのものがあるが、心の変異と継続生起の変異の中において、種々の思想(=考え)の変化によって、心の認知は明確に知ることができる。諸々の心所の中において、感覚(受)を例にすると、楽しさ、痛苦、喜び、悲痛と冷淡などの変化は、非常に明確である。
故に、想の改変、最初の想、持続の想、善から悪までの想もまた同様に、非常に明確である。
一人、単独で座っている人間の姿勢の中において、貪婪、無私、恨みと友善(=友好)などの思いは、順番に生起するが、これは誰でも気が付く事である。
上に述べたのは心法の無常性であり、無常相について述べたものである。
(21-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)