《Vipassanāハンドブック》22-2(F)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
今生今世において、我々は、各の如くの幸運に恵まれて、
仏法を聴聞しているのであるから、我々は、止(サマタ)・観(vipassanā)の修行に励み、物事の無常性を観じて、「無我随観智」を充分に、証得しなければならない。
この事を説明する為に、我々は以下の経文を、引用したいと思う:
《Meghiya に関して言及すれば、彼は無常性を理解することが出来、諸法が「無我」ーー万事万物は、おしなべて永恒不変の実体を持たないーーを理解することができる。
彼について言えば、彼はすでに「無我」を理解しており、
五蘊によって統括されている所の「我(私)」の妄想は、
すでに破壊された(「照見五蘊皆空」)。
彼は、今生今世において、涅槃さえをも、獲得するであろう》
(Aniccasaññino hi, Meghiya,
anattasaññā saṇṭhāti,
anattasaññī asamimānasamugghātaṁ pāpuṇāti diṭṭheva
dhamme nibbānan"ti)
(《自説経》Meghiyavaggo)
我々はこの段の経文を詳しく説明しない。
というのも、我々はすでに、無常相もまた、無我相に変換することができる、と説明したが故に。 (22-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>