南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

般若の独り言~たまには哲学

宗教とくに仏教(テーラワーダ)と哲学は、相性が悪い。

テーラワーダ仏教は、戒を守り、定を育成し、慧を増長させよ、という実践的な教えで、仏教徒は、哲学的な思考の迷路に嵌ってはいけない、実践が大事、という訳です。

確かに私もそう思うのですが、しかし、昨日、WEB上で竹田青嗣氏の本の紹介文を読んでいて、ふと考えました。

彼が哲学を考え始めたきっかけは、青年の頃(1960年代)に見た在日朝鮮人在日韓国人二世たちの対立、一方は社会主義北朝鮮がいいといい、一方が民主主義の韓国がいいといい、双方が絶対に自分の意見を譲らない様子を見てから、との事でした(竹田氏も在日で、しかし、本人はどちらの側にもつく気がしなかった)。

彼は、同胞のこの種の争いを「信念対立」と呼んでいるのですが、実は、この事は仏教界でも「あるある」ですよね。

かく言う私も、若い時は、大乗仏教・・・特に浄土系が嫌いだったのですが、最近少し考えが変わりました。

浄土系でいう<念仏>をテーラワーダの<仏随念>に置き換えると、浄土宗は、テーラワーダの「仏随念を修する事を通して(仏への)信を確立し、死後天界に生まれ、来世はそこにおいて更なる向上を目指して修行しよう」という考えと、非常によく似ている事に気が付きます(大乗の元ネタは、パーリ経典の中に見つかることが多い。たとえば、大乗の<6ハラミツ>はテラワーダの<10ハラミツ>と極似、法華経の<7つの宝>はテラワーダの<7覚支>の比喩的表現等)

若い頃、または年をとっても、ある時点で自分が聞いた、または誰かに教えて貰った何らかの思想・信条が正しい(また正しくない)と思ったときに、どうしても、それに執着してしまう。

それは、己がもう一つ余分に、もう一つ別の<エゴの鎧>を着こんだ瞬間なのだ、という事に気が付かない(しかし、<エゴの鎧>というものは、仏教徒が一番避けなければならない心理的位相だと思います。)

そんな訳で、己の頭の中を相対化する為にも、たまには哲学を勉強してみようかな、と思った次第・・・哲学の持つ負の面、どうしても<頭の体操>になりがちな部分に気を付けながら。

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>