南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

般若の独り言~止観(サマタ/vipassanā)瞑想とは何か

昨日、WEBニュースを見ていましたら、タイの洞窟に閉じ込められたサッカー少年たちの記事が出ていました(今年、6月末から7月にかけての事件)。

正確に言いますと、少年たちにサッカーを指導していたタイ人コーチの、経歴等に関する、精神科の女性医師による称賛のコメントでした。

彼女は、このコーチが瞑想によって、真っ暗な洞窟の中においても、落ち着きを維持して、己自身と少年たちを守ったのだ、との意見です。

この意見に異議はないのですが・・・。

彼女が、コーチが行っていた瞑想を<ヴィパッサナー(vipassanā)瞑想>だと言っている事が気になりました。

いつから、人々は、サマタ瞑想と Vipassanā 瞑想を、

混同するようになったのでしょうか?

本当は、こんな重箱の隅をつつくような事を言いたくはないのですが、しかし、止と観の瞑想(サマタ瞑想& vipassanā瞑想)を混同していると、一体自分は、ゴータマ仏陀の教えた瞑想の、どの部分を実践しているのか、分からないままにやみくもに取り組んでいる事になって、これは余りよろしくないのです。

前述のWEBでのコメントでは、「コーチは<息の出入りを見る瞑想>をしていた」と書かれていました。

そうすると、コーチは、安般念(出入息念)を実践していた事になります。

これはサマタ瞑想です。それなのに、この精神科医師は、これを<マインドフルネス瞑想>と呼んだり、<vipassanā瞑想>と呼んだりしています。

マインドフルネス瞑想(気づきの瞑想)は、その深さと瞑想の対象(所縁)によって、<正念の瞑想>または、<正知の瞑想>と定義する事ができるので、安般念を<マインドフルネス瞑想>と呼んでもOKかと思いますが、安般念を<vipassanā瞑想>と呼ぶことはできません。

Vipassanā瞑想とは、素粒子レベル(またはクォークレベル)の無常・苦・無我を観察する事に特化した、刹那定によるミクロの観察の事を言います。

その時、修行者が見ている対象は、色法(素粒子)と名法(心・心所)です。

細かく言えば、それらの、もはや分解する事の出来ない

<究極法>の無常・苦・無我を観ているのを、vipassanā

瞑想と言います(注1)

この種の<究極法>を観察する修習は、<16観智>と言いますが、これが vipassanā瞑想です。

<息の出入りを見る修習>すなわち安般念、禅相(nimitta)が生じて、その光で、体内を観察する修行(32身分)など、遍(カシナ)を含む、40種類の業処を所縁とする瞑想は、どんなに高度(四禅や非想非非想処等)であっても、サマタ瞑想です。

修行者にnimittaが生じて、色聚と名聚の観察が出来て、かつ、それらの密集を看破できるようになった時はじめて、それを vipassanā瞑想と呼びます。

瞑想によって、日常生活において心の落ち着きを得ることができれば、瞑想に関する呼び名、定義などどうでもよいではないかと、私も思いたい所なのですが、ゴータマ仏陀の教えた瞑想の最終目標、究極の目標は出世間、すなわち、ミクロ世界の無常・苦・無我を、智慧でもって看破することなのだという内実を押さえておかないと、己自身の瞑想修行において《今現在、自分は一体どこにいるのか》という地図を描けない、または描き間違えてしまうと思います。

老婆のようにくどくど、書きました。

老婆心まで。

注1:いまだ分解できる色(身体、物質)と名(心・心所)の<塊>を観ている場合は、概念を伴うので、サマタ瞑想と言います。縁起の修習(己自身の過去世、未来世の観察)と、名色分別智の修習は、サマタ瞑想と vipassanā瞑想の中間地点です(便宜的にこの二者を vipassanā瞑想の範疇に入れる場合があります)。これより上の<16観智>が 真正の vipassanā瞑想です。

「私は吐く息を観じている。私は吸う息を観じている」という安般念の対象は<息>ですから、それは<概念を観じている>ので、サマタ瞑想になります。ラベリングは概念に名称(恣意的に言語化された上位概念)を張り付けている行為であり、<如実知見>とは一番遠い関係になります。

詳しくは拙訳『智慧の光』(パオ・セヤドー著)参照の事。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>