私が仏教(アビダンマ)の勉強を始めた頃、感受というのは苦受、楽受と不苦不楽受がある、と教えられました。
苦受と楽受は理解できますが、不苦不楽受とは何か?
これがなかなか理解できないでいました。
今朝、まだ日が昇らない内に目が覚めたので、蒲団に横になったまま瞑想していた所、肩に痛みが走ったので「痛み」とラベリングしようとして止めて、ただ、肩に生起する感受を生起するままに、眺めていました(注1)。
すると
「あれ?これって『痛み』じゃなくて、肩に生起したただの『現象』じゃない?」
そして知ったのである。
これは<ただの現象>であって、故に<不苦不楽受>なのだという事を。
我々は、非常に多くの不苦不楽受を、うっかり<苦受>に分類してしまっているのではないでしょうか?
そして、感受を分類する時に使う道具は<言葉><ラベリング>。
私は大人になっても、よく次の様な体験を、思い起こすのです。
まだ小学校に上がる前の頃、<ままごと>に熱中していた時、祖母が私の額に手を当てて「あらら、熱がある。これは大変」と言ったら、私もへなへなと、そこに座り込んでしまって、あんなに熱中していた<ままごと>を、やめてしまったたことがあったのですが、熱があっても、それを言葉でラベリングして確認する事を知らない幼子は、祖母の言葉を聞く前には、平常心で遊びに夢中になっていられた・・・。
先日亡くなられた樹木希林さんは「人生は面白がればよい」と述べていましたが、それは「人生は苦である」とラベリングしたとたん、本当に苦しくなってしまうので、ラベリングをやめてニュートラル、不苦不楽を心がけ、そしてそれ(不苦不楽の自覚)を笑ってしまえば、長い人生事も無し・・・という意味なのではないかしらん、と私は解釈しています(難しく言うと「如理作意」で生きる。禅宗でいう赤心、キリスト教でいう所の、アダムとイブが食べた「知恵の実」も、そのような事を示唆しているように思います)。
(注1)パオ・メソッドはラベリング禁止ですが、ちょっとした習慣で、ついラベリングしてしまう事がある。
追補:凡夫にとって、激痛や意味のない使役、いじめや迫害、戦争は苦しいので、「人生に全くもって苦はない」というお花畑的観念論は、除きます。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>