<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
”かくの如くに、或いは内身随観身によって住し、或いは外身随観身によって住し、或いは内外身随観身によって住する。
或いは身随観生起の法によって住し、或いは身随観壊滅の法によって住し、或いは身随観生起、壊滅の法によって住する。
彼は ’有身(=身体は有る)’ という念を現起(現象)させるが、これはただ、智と憶念の為に(+そうするに)過ぎない。
彼は依止する所なくして住み、また世間の一切に執着しない。
比丘たちよ。
比丘はこのように、身随観身において、住するのである。”
故に、《中部》の義註において、《大念処経》は、止の修習も含み、観の修習も含みつつ(samathavasena gacchatopi vipassanā‐vasena gacchatopi)、
vipassanā について論じている経文(vipassanuttaraṃ nāma kathitaṃ)であると言うのである。
(2-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<パオ・セヤドー著『涅槃証悟の唯一の道』 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>