<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
例えば、仏陀は《増支部・証智経》(Abhiññā Sutta)の中において、以下の様に述べる:
”比丘たちよ。
どの様な法が、智の証得を通して、修習されなければならないか?
止と観である(注5)(samatho ca vipassanā ca)。
比丘たちよ。
これらの法は、証得された智でもって修習されるべき
(+法)であると呼ばれる。”
《増支部》の義註においては、証得された智でもって止を修習するという意味は、一境性(cittekaggatā)を育成する事である、と説明する。
それは定(samādhi)に相当し、またすなわち、《清浄道論》で言う所の心清浄(cittavisuddhi)であり、それは八定(aṭṭha samāpattiyo)と呼ばれる所の、四種類の色界ジャーナと四無色定を含み、それはまたすなわち、すべての安止定(appanāsamādhi)でもある。
心清浄はまた、近行定(upacārasamadhi)を含むが、それはまさにジャーナに到達したのと同じくらいに、その定力が深いが故である。
<注5>義註では、観(vipassanā)を、行摂受観智(saṅkhārapariggahavipassanā-ñāṇaṃ)であると説明している。
行摂受=名色摂受=究極色法、究極名法及びその因をしっかり把握する事を言う。複註では、無常[・苦・無我]などの種々の行相(vividhenākārena)の照見を、観であるとしている。
(3-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>