南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐14)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

《増支部》の義註では、智の証得によって観を修習する事の意味は、諸行への観智(+の能力)を育成する事だ、と述べている。

それはすなわち、己自身自ら証得した所の智でもって、究極色法、究極名法及びその因を了知する事である。

その後で、修行者は、これらの行法の無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)の相(注6)を理解、了知しなければならない。

もし我々が、禅の修行の順番を、七清浄とするならば、観の修習は、戒清浄と心清浄の後の、五つの清浄である、と言える:

それは見清浄(diṭṭhivisuddhi)から始まり、最後に智見清浄(ñāṇadassanavisuddhi)で終わる。

こうしたことから、これらの権威ある経典ママ(=義註、複註)を参考にした時にのみ初めて、我々は、仏陀が多くの経典において述べた定、ジャーナ、慈の修習、または遍の修習などは、実際には、止の修習について、述べているのだという事を、理解する事ができる。

同様に(+義註と複註を参考にして初めて)、仏陀が、多くの経典の中で述べている所の、五蘊観照及びその生起と滅尽の観照、己自身自ら五蘊を遍知し証悟する事、五蘊の無常・苦・無我を照見する事は、観の修習の説明をしているのだ、という事が分かるのである。

<注6>《法集論・欲界善》(Kāmāvacarakusalaṃ)の中で、多くの心所が、対をなして羅列されて列記されているが、それには止と観が含まれる。

《法集義註・軽安等双釈》(Passaddhādiyugalavaṇṇanā)の中では以下の様に言う、

”欲貪などの敵対法を止息させるのを止と言う(Kāmacchandādayo paccanīkadhamme sametīti samatho)。無常等の種々の行相を照見するのを観と言う。それはすなわち、慧の義である(Aniccādivasena vividhehiākārehi dhamme passatīti vipassanā、Paññāvesā atthato)。・・・ここにおいても(止観)は対になっているものである。”

(3-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見されたは<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>