<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《増支部》の義註では、智の証得によって観を修習する事の意味は、諸行への観智(+の能力)を育成する事だ、と述べている。
それはすなわち、己自身自ら証得した所の智でもって、究極色法、究極名法及びその因を了知する事である。
その後で、修行者は、これらの行法の無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta)の相(注6)を理解、了知しなければならない。
もし我々が、禅の修行の順番を、七清浄とするならば、観の修習は、戒清浄と心清浄の後の、五つの清浄である、と言える:
それは見清浄(diṭṭhivisuddhi)から始まり、最後に智見清浄(ñāṇadassanavisuddhi)で終わる。
こうしたことから、これらの権威ある経典ママ(=義註、複註)を参考にした時にのみ初めて、我々は、仏陀が多くの経典において述べた定、ジャーナ、慈の修習、または遍の修習などは、実際には、止の修習について、述べているのだという事を、理解する事ができる。
同様に(+義註と複註を参考にして初めて)、仏陀が、多くの経典の中で述べている所の、五蘊の観照及びその生起と滅尽の観照、己自身自ら五蘊を遍知し証悟する事、五蘊の無常・苦・無我を照見する事は、観の修習の説明をしているのだ、という事が分かるのである。
<注6>《法集論・欲界善》(Kāmāvacarakusalaṃ)の中で、多くの心所が、対をなして羅列されて列記されているが、それには止と観が含まれる。
《法集義註・軽安等双釈》(Passaddhādiyugalavaṇṇanā)の中では以下の様に言う、
”欲貪などの敵対法を止息させるのを止と言う(Kāmacchandādayo paccanīkadhamme sametīti samatho)。無常等の種々の行相を照見するのを観と言う。それはすなわち、慧の義である(Aniccādivasena vividhehiākārehi dhamme passatīti vipassanā、Paññāvesā atthato)。・・・ここにおいても(止観)は対になっているものである。”
(3-15につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見されたは<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>