Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(H)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(原文P204 )

禅修行者:

禅師のもう一つの著書《煩悩に嗤われる時》の中で、禅師は信(saddhā)について、ほとんど語る事がありませんでした。

ここにおいて今、信について、その意味とその重要性について、説明して頂けませんか?

禅師:

信とは信仰の事で、信心とは、信頼、確信の事です。

禅の修行の時、信を含むすべての心理的機能は、強化されなければなりません。

我々は、己自身への信心(=信頼)、修行の能力と理解力への信心は、みな成長させねばなりません。

我々は、ある事柄を信頼し、その事に対して信心のある時にのみ、その中に(+己自身を)投入することができます。

我々が修道の道筋において、不退転の心で臨めるのは、信のある故であり、そうであるが故に、己自身の信心について、認識を新たにしなければならないのですーその多少にかかわらず。

正しい思考の仕方を知っている、智慧の強い人間は、信念もまた強い。

しかしながら、もし、智慧と(+信が)相応するレベルでなければ、信は、盲目的な思い込みに、変質してしまいます。

信が成長しているかどうかを知るためには、我々を己自身を点検しなければなりません:

我々は、修行が我々にどのような利益を齎すかを、真正に知り、かつ理解しているでしょうか?

我々は、修行を始める前、どれほどの信念があり、修行の後では、またどれほどの信念が成長しているでしょうか?

己自身の信念を知る事は、非常に重要な事なのです。

多くの人々は、<五根のバランスを取るべきである>という話を耳にしたことがあるのですが、しかし、多くの人々は、精進根と定根をバランスするばかりで、信根と慧根のバランスを取る必要性を知っている人、二者がバランスするよう、実際に試みる人は、非常に少ないのです。

理性が過多である人、思考が過ぎる人は、非常に多くの問題を抱えていて、信根が(+育たず)、過剰に弱い。

反対に、もし、一人の修行者が、信念に満ち溢れていて、疑問無く、質問をする事がないならば、彼の智慧は、弱くなってしまうのです。

伝統的に、信とは、信心、または三宝への信仰だと、解釈されてきました。

問題は、初心者は、三宝に対して、どの様に信仰の信を起すことができるのか、という事にあります。

禅の修行者の信心、信頼、または信仰の心は、己自身の行為や、為すべき事柄に、理解と確信があるが故ですが、正しく思考し、かつその正しい思考によって事を為す人の興味と信心は、自然に成長するものなのです。

(Iにつづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>