<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<注13>
《清浄道論・神通論》(Abhiññākathā)は、この話を、詳細に、以下の様に、解説している:
住立とは不動の事であり、すなわち、フラフラしない(acale)、不動揺(niriñjaneti)で、五根はその敵対する法によって動揺する事がない:
信(saddhā)は無信(asaddhā)に動揺させられる事がなく、
精進(vīriya)は懈怠(kosajja)に動揺させられる事がなく、
念(sati)は放逸(pamāda)に動揺させられる事がなく、
定(samādhi)は掉挙(uddhacca)に動揺させられる事がなく、
慧(Pañña)は無明(avijjā)に動揺させられる事がなく、
生じた光明(obhāsagata)は、煩悩の暗黒(kilesandhakāra)に動揺させられることがない。
この8項目の要素を具足する心は、勝智の諸法(abhiññāsacchikaraṇīyānaṃ)の証悟を、誘発することができるが、それは勝智(abhiññāsacchikiriyāya)を証悟する為の、基礎(pādakaṃ)と近因(padaṭṭhāna)となる。
義註では、それをvipassanā の基礎になるジャーナ(vipassanāpādakajhāna)である、と言う。
《清浄道論・定功徳論》(Samādhiānisaṃsakathā)では以下の様に言う:
”学人と凡夫(非阿羅漢と非聖者)は、出定(vuṭṭhāya)のあと、思う:
’私は定の心でもって観の修習をしよう(samāhitena vittena vipassissāmāti)。’
すでに修習したものをもってvipassanā の足処(padaṭṭhānattā)の安止定の修習(appanāsamādhibhāvanā)に(+利用するが)故に、近行定の修習(upacārasamādhibhibhāvanāpi)をもその内に伴って、障礙の内において、vipassanā の功徳(vipassanānisaṃsā)を証悟する機会を、得ることができる(+に違いない)。
故に、仏陀は言う:
’比丘たちよ。
定の修習をしなければならない!
比丘たちよ。
定力のある比丘は、如実に(+真理を)了知することができる。’ ”
(3-26につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>