<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
禅修行者:
択法と念明覚(sati-sampajañña)は、どの様に異なり
ますか?四種類の念明覚について解説して頂けませんか?
禅師:
二者は共に智慧の事です。《念住経》において、念は明覚を伴わなければならない、と書かれています。
この二者は、同時に具足されなければなりません。
四種類の明覚は、すべて智慧と関係があります。
簡単に言えば、
一番目の有益明覚(sātthaka-sampajañña)と
二番目の適宜明覚(sappāya-sampajañña)は、
聞慧と思慧に相当し、我々の実際の修行と関係があります。
禅の修行において、動力を得て、智慧が成長した後、我々は三番目の明覚、すなわち、
行処明覚(gocara-sampajañña)を体験して、
個人は存在しない事、ただ心身の過程があるに過ぎない事を理解します。
最後の一つの明覚は、
無痴明覚(asammoha-sampajañña)で、
その内実は、無常・苦・無我への理解です;
この二種類の明覚は、修慧に属します。
前の二種類、すなわち有益明覚と適宜明覚は、因であり;
後ろの二種類は果です。内観(vipassanā)はここにおいて、生起します。
あなたは、<今・ここ>において何事かをなす<心>を見ることができますが、あなたは画面全体(=生起している事柄の全体像)を見ているでしょうか?:
覚知の範囲、心はどの様に精力(=気力、エネルギー)を応用するか、心は如何にして対象と連携を取るかなど等、心は次々と、 ”今、私は何をすべきなのか?” と自問します。
ただ対象を睨み付けているだけではダメなのです。
”純粋な覚知”とは何か、一度疑ってみる必要があります。これは何を意味しているのでしょうか?
前の二種類の明覚は、常識的な智慧です。
あなたが禅の修行をする時、智慧が仕事をしており、智慧が修行の進め方をあなたに教えているのです。
日常生活の中でも同じことが起こっており、この種の常識的な智慧が働いて、あなたが何かの行動を起こす前に、(+心は)明智を伴った決定を下していて、これらの事柄が(+自分と他者にとって)適切であるかどうか、利益を齎すかどうかを、明確に知る訳です。
(K-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>