Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『涅槃証悟の唯一の道』 パオ・セヤドー著(3‐49)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一道門

Vipassanā に関する基本的な検討を終了するにおいて、我々は、《増支部・ウッティヤ經》(Uttiya Sutta)を、見てみようと思う。

經の中において、以下の様に言う:

有る一人の、名をウッティヤという外道の遊行僧(paribbājaka)が、仏陀は一体何を言っているのか、と尋ねた。

仏陀は答えて言う:

”ウッティヤ、私は証智でもって、弟子たちに説法をする。有情を清浄し、愁、悲を超越し、苦、憂を滅し除き、如理を得達し、涅槃を現証する為に。”

仏陀が弟子たちを教え導く仏法の目的は、彼らが、七種類の利益を得られる様にするためであるが、一つひとつの利益の意味は皆同じであり、それはすなわち、涅槃を証得することであり、それはまた、苦の完全な止息に相当する。

仏陀の回答を聞いて、彼はまた仏陀にもう一つ別の質問をした:

”もし、尊師ゴータマが証智でもって、弟子たちの為に説法するのは、有情を清浄し、愁、悲を超越し、苦、憂を滅し除き、如理を得達し、涅槃を現証する為だとして、一切世間(sabbo loko)は皆引導されるのか、または半分(upaḍḍho)だけ引導されるのか、それとも三分の一(tibhābo)だけ引導されるのか?”

ウッティヤが訊いたのは、ある種の衆生は、仏陀の教えによって(+その全員が)涅槃を証悟するのか、それとも、その中の一部分であるのか、という問題である。

仏陀は、どの様に答えたか?

仏陀は、沈黙したのである。

仏陀は、ウッティヤのこの質問に、返答しなかったのである。

というのも、それは無記(apucchaṃ)であるが故に。

それが無記であるのは、衆生の見解(sattūpaladdhi)によるからである。

ウッティヤの疑問は、衆生に関してであり、仏陀の説明は、究極法の証智に関してであり、故に、仏陀は沈黙して、答えなかったのである。

アーナンダ尊者は、ウッティヤが、仏陀がどの様に答えてよいのか分からないのだろうと推測するであろうし、また、ウッティヤは、この問題は仏陀にとって、奥深すぎて答えることが出来ないのだろうと推測するだろう、とも考えた。

正自覚者に対してこの様な考え、推測をするのは非常に危険であるため、この種の誤解を解くために、アーナンダ尊者は、ウッティヤに言った:

”賢友ウッティヤよ。

私はこの件に関して、一つたとえ話をしようと思う。

たとえ話を通して、智ある人は、語られている事柄に関して、その意味を理解するであろう。”

(3-50につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>