<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
1)禅の修行者は、過去、現在、未来、内、外、粗い、微細、劣等、優秀、遠い、近いの色、受、想、行、想を遍知し、かつ証悟しなければならない。またそれは、究極色法と究極名法を遍知し、証悟しなければならない、という事でもある。
2)禅の修行者は、過去、現在、未来、内、外、粗い、微細、劣等、優秀、遠い、近いの色、受、想、行、識の因を証悟し、断じ除かねばならない。またそれは、正順の縁起を証悟し、断じ除くものであると言える。
3)禅の修行者は、過去、現在、未来、内、外、粗い、微細、劣等、優秀、遠い、近いの色、受、想、行、識の滅尽を証悟し、現証しなければならない。またそれは、逆順の縁起を証悟し、現証しなければならないものであると言える。
4)禅の修行者は、過去、現在、未来、内、外、粗い、微細、劣等、優秀、遠い、近いの色、受、想、行、識の滅尽の育成と証悟に導き至る修行を実践しなければならない。またそれは、止と観の証悟を育成する必要があるのだと言える。
同様に、引用し、論談したこれらの経文において、仏陀は、禅の修行者は、五蘊を証知しない、遍知しない、捨断しないのであれば、六内外処を証知しない、遍知しない、捨断しないのであれば、一切を証知しない、遍知しない、捨断しないのであれば、苦を滅尽(dukkhakkhaya)することはできない、と言う。
彼は同時に、諸漏の滅尽(āsavānaṃ khayaṃ)は、五蘊と、その生起と滅没をについての知見を必要としているのだ、と述べている。
更に一歩進んで言えば、上に引用し、論談した所の、これらの經文に基づけば、我々は、四念処のすべてを随観する事によってしか、不死(amataṃ saccikataṃ)を証悟することは出来ない(+のだという事が分かるのである。)
こうしたことから、我々はこれ以上さらに解説する必要はないであろう。
仏陀は《大念処経》の中において vipassanā を指導する時、観の修習とはすなわち、五蘊のすべて、すなわち、色法と名法を観照することであると、はっきりと指摘しているのであるが故に。
(3-64につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>