Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(M-1)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(原文P223)

禅修行者:

禅師。あなたは、慈心の修習をあまり奨励しない様ですが、vipassanā の修行者が、慈心を修習するのは、あまり適切ではないのでしょうか?

禅師:

私は(+それらの人々が)慈心を修習するのが不適切だと思っている訳ではありません。

時には利益があります。

私は、私の修行のある段階において、私の指導者が私に、慈心を修習する様にと、言いました。

これは、個人の状況をよく見なければなりません。

禅の修行には、多くの基礎的な法門がありますが、仏陀は、ある種の人々には、慈心から修習を始める様にと教え、ある種の人々には、念住から修習を始める様にと、指導しました。

あなたが念住を修習する時、その内の考え方としては、その修行を行っている時、いかなるものも創造してはならないし、何かの経験を創造する事とを、試してもいけないのです。

そして、その修行の経験を、それそのもの本然に基づいて受け入れ、かつ、その内から学ばねばなりません。

慈心はどうでしょうか?

どの様に修行しますか?

慈の感覚、感受を創造する訳ですが、(+その修習の方法とは)あなたが誰かに怒っている時に、彼に対して慈心を生起する様に、チャンレジするのです。

ある種の人々は、怒っている時に、慈心の修習をすると、内心にジレンマが生じます。

その結果、慈心は、効力を発揮しえないのです。

というのも、本当に怒っている時、理性で怒気を制圧しても、成功しないからです。

私はかつて、怒っている対象に、慈心を散布しましたが、今の私の智慧でもっては、このやり方を受け入れることができません。

私の智慧は言います:

”もっと現実的になりなさい!

憤怒を観察しなさい!

憤怒を理解しなさい!”

(+慈心の修習は)己自身を騙している様な感覚を覚えます。

以前、私は集中して、慈心の修習を実践しましたが、夜が明けるまで徹夜で修行して、ジャーナに入った事もあります。

その時は一日中、喜悦の境地の中にいる事ができました。

しかし、この種の経験は、興奮しやすい私の性格を治す事はできませんでした・・・一たび修習を止めると、元に戻ってしまうのです。

私は長年、在家のまま、念住の修行を実践しました。

各種の心理的活動を観察した後、心は、ある種の時期、ある種の時間帯において、完全に瞋念がない状態になる事に、気が付きます。

この時に、誰彼となく慈心を散布してあげるのは簡単であり、何等の障碍もありません。

私の指導者は座禅・瞑想して、心が真正に静かになった時に初めて、慈心を散布しますが、これが本当の慈心です・・・あなたのポケットにお金がない時、あなたは布施ができるでしょうか?

あなたの心内に瞋がない時、己自身と同じタイプの人に会うと、慈心が生じます;

困っている人に会うと、悲心が生じます;

徳のある、端正な人に会うと、喜心が生じます;

己自身では改変することのできない事柄に出会った時、捨心が生じます。

しかし、内心にほんの一筋だけでも瞋念がある時、これらを実践するのは、不可能になるのです。

心が清明で、瞋のない時、その他の観法の修習も容易くできます。

例えば、あなたが仏像を見る時に、心内に仏への尊敬心が湧きあがります。それは、その時、心は善なる状態にあって、自然と仏随念の修習ができる様になるからです。

仏を見るのに、三種類の方法があります:

一、肉眼で仏を見る;

二、心内で仏を観想する;

三、智慧で仏を理解する。

これは何故仏陀が、 

”もし人が法を見るならば、私を見たのと同じである” 

と言ったのか、という理由です。

多くの、仏陀と共に住んだ人々はしかし、本当に彼と会っていた訳ではありません。仏陀は、彼を一目見たいと強く願いながら、少しも修行しない修行者を、追い出したくらいですから!

私はあなたに、真正な慈心を擁してもらいたいと思います。

それは、あなたの思いつきで創造した所の、己自身または他人に向かって散布する慈心ではありません。

あなたに瞋念のない時、慈、悲、喜、捨の内の、どれでもいいのですが、あなたはどれほど多くの慈心を散布しても、問題はありません。

慈心は無瞋から生じます。

故に、瞋心を認識し、観察し、理解することは、慈心の修習より、更に重要なのです。

私はあなたに、先に(+あなたの心内にある)瞋心を解決する事を、お勧めます。

というのも、瞋心は真実であるが故に。

(M-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Amareness Alone is not Enouhg》より改題/抜粋翻訳

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>