Sayalay's Dhamma book

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『涅槃証悟の唯一の道』★パオ・セヤドー著(3-67)重要必読

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(原文P45)

身随観身において(現在因)

上に述べた如くに、色法には三種類の現在因がある:

現在の心、現在の時節と、現在の食素である。

ただ、現在の時節と食素自身だけが、色法な故に、現在の心を因として生起する色法を、観照する為には、心生色法を生じせしむる所の、現在心の生起を、観照しなければならない。

この過程を解説する為に、我々は《大念処経・身随観》(Kāyānupassanā)の中の威儀路(iriyāpatha)の部分を、討論してみたいと思う。

仏陀はここでは、ただvipassanā だけを指導している。

彼は以下の様に言う:

【次に、比丘たちよ。比丘よ。

1)歩くとき、’私は歩く’ と知っている(gacchanto vā ’gacchāmī’ ti pajānāti)。

2)または、立つとき、’私は立っている’ と知っている(ṭhito vā ’ṭhitomhī’ ti pājanāti)。

3)または、坐る時、’私は座っている’ と知っている(nisinno vā ’nisinnomhī’ ti pajānāti)。

4)または、横臥している時、’私は横臥している’ と知っている(sayāno vā ’sayānomhī’ ti pajānāti)。

5)身体がどの様な状況の時にでも、それを如実に了知している(yathā yathā vā panassa kāyo paṇihito hoti、tathā tathā  naṃ pajānāti)。】

比丘がある種の姿勢の内にある時、その身体(+の様子を)了知するとは、どういうことであるのか?

歩いている時、我々すべての人間は、己が歩いている事を知っている。それは、動物さえも、自分が歩いている事を知っているのである。(注34)

己自身の足が持ち上がり、その後に前に向かい、その後に足を降ろすなど(+を観察する事)、これは観智であるのか?

これは、身体の生起の法と壊滅の法を観照しているのであるか?

ただ足の移動、身体の動作を知っているだけであるならば、それを観智とは言わない。

というのも、それは、ただの概念法であるが故に。

姿勢の内にあって、観智でもって、身体の生起の法と壊滅の法を観照したいというのであれば、それは究極法を観照しなければならず、それには四界分別(+観)をも、修習しなければならない。

この様にして初めて、禅修行者は、究極法の生起を了知する事ができ、またその後において、(+究極法が)その同一の場所において滅し去るのを、了知することができるのである。

究極諦によると、いわゆる歩く、立つ、坐るなどという事柄はなく、足もなく、(+足が)持ち上がったり、降りたりするという事柄もありえない。

動作ということがらは、究極色がそれぞれの場所で生・滅する以外の、なにものでもないのである。

<注34>《大念処経》の義註は以下の様に解説する:

犬、オオカミなどが道を歩くとき、彼らは己自身が歩いている事を知っている。しかし、この様な(+レベルの)<歩いていることを知っている>は、有情の妄見を捨断することはできないし(sattūpaladdhiṃ na pajahati)、また、業処を修習している訳でもないし、念処を修習している訳でもない(kammaṭṭhānaṃ vā satipaṭṭhānabhāvana vā na hoti)。

というのも、犬やオオカミなどは、歩くという事は、風界が最も顕著な心生色法によって生じている事を、見ることができないが故に。

(3-68につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>