南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『涅槃証悟の唯一の道』★パオ・セヤドー著(3-68)重要必読

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

しかし、ただこの様に了知するだけでは、未だ足りないのである。

彼は、何が色法をして、異なる場所において生起せしむるのかを、了知する必要がある。

彼は ”歩く”色法 という事柄の因を、了知しなければならない。

彼は、己自身の観智を通して、歩きたいと思う心(足を引導する心)が身表色(kāyaviññattirūpa)を生じせしめる事を、了知しなければならない。

そのためには、動作(+そのもの)を了知しなければならず、彼は、身体を移動させしめる所の心の生・滅を、了知しなければならない:

移動したいと思う心を観照するのは、心随観(cittānupassanā)に属する(+修習である)。心が何事かをなしたいと思う心所は、思(cetanā)と言い、それを観照するのは法随観(dhammānupassānā)に属する(+修習である)(訳者注)。

禅修行者が、それと同時に生起する心所の、すべてを観照することができないのであれば、移動したいという心を、知ることはできないのであって、故に、彼は、移動したいと思う心とは別に、受とその他の心所をも、同時に観照しなければならないのであるーーすなわち、受随観(vedanānupassanā)と、法随観(dhammānupassanā)である。

彼が歩くのを止めたとき、心は ”歩く” 色法が生じるのを停止して、”立つ” または ”座る” 色法が、それにとって代るのである。

禅修行者は、己自身の観智を通して、これらの事柄を了知しなければならない。

そうでないならば、姿勢に関連する所の、身体の生起の法と、壊滅の法を、了知することはできないのである。

この様にして初めて、禅修行者は、何事かの良い事または悪い事をなしたいと思った事が因となって(善思まは不善思を通して)、身体が移動し、その結果、観智を得るのだという類の観照を、修習することができるのである。

姿勢について、完全に了知したいのであれば、禅修行者はこの様に、己自身の観智でもって四念処を観照しなければならない:

それらは何によって構成されているのか?

それらの生起と、それらの生起する因、それらの壊滅とそれらの壊滅する因。

この様に(+修習)して初めて、禅修行者は完全に、姿勢についての了知を得ことができる;

この様にして初めて、姿勢に関しての、観の修習を始めることができる。

前に進む、戻る、前を向く、横を向くなどの各種の身体の動作への観照もまた、同様である。

これが、観の修習における、正知(sampajañña)の意味である。

入出息に関して、それはどの様にして生じるのであろうか?

それは、呼吸したいと思う心と、仏陀が生身と呼んだ所の、色身によって生じる。

四種類のすべての念処は、みな観照されなければならない。

それはすなわち、色法と名法の二者である。

この様に修習しないのであるならば、禅修行者は苦聖諦ーー五取蘊を証知する事はできないのである。

(訳者注)下線部分は、原文に誤植と思われる部分があった為、意訳した。

(3-69につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」) 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>