<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
”この様な 知っている は、有情の見解を捨断できないだけでなく(sattūpaladdhiṃ na jahati)、有情の想も、断じ除くことができないし(attasaññaṃ na uggahāṭehi)、業処の修習でも、念処の修習でもない(kammaṭṭhānaṃ vā satipaṭṭhānabhāvanā vā na hoti)。”
それでは、現実的な、真正なる受念処の育成とは、どの様なものであろうか?
それは、各種の受及びその生起、滅尽を証知し、かつ、その滅尽へと導く事のできる、禅の修習の事である。
では、受とは如何にして、生起するのであるか?
仏陀はかつて、何度も解説を加えている。
例えば、《蘊相応・七処經》(Sattaṭṭhāna Sutta)において、下記の如くに言う:
”比丘たちよ。
何が受(vedanā)であるか?
比丘たちよ。
六種類の受身(vedanākāyā)がある;
眼触は受を生じ(cakkhusamphaassajā)、
耳触は受を生じ、
鼻触は受を生じ、
舌触は受を生じ、
身触は受を生じ、
意触は受を生じる。
比丘たちよ。
これを受と言う。
触が生じるが故に受が生じる(phassasamudayā vedanāsamudayo)、
触が滅するが故に、受が滅する(phassanidodhā vedanānirodho)。
(注36)
(3-72につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>