<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
有分に落ちる
前に述べた様に、名法の生起は一連の心路を形成し、かつ、異なった類型の心によって構成される。
それらは目で見る事によって、目標を識知する所の心路であり、耳で聞く事によって、目標を識知する所の心路・・・心を通して目標と識知する所の心路である。
それらはすべての時間において、六根を通して識知するのである。
しかし、これらの心路の間には、無数の有分心(bhavaṅga)が生起する。
今は有分心の説明をする時ではないのではあるが、それがひとたび生起すれば、現時点の如何なる所縁をも識知することができない。
ただ禅修行者が縁起の修行に至ったとき、彼は有分心の所縁を知る事ができる。
禅修行者が定力を育成する時、”有分に落ちる” 可能性がある。専注する心は、如何なる色彩、音などの所縁に注意を払ってはいないが、しかし、それは禅修の所縁から離れてします。その時、生起するのはただ有分心のみであり、”能所双泯”と言われる体験をするか、または、これを涅槃を証悟したのだと思う事がある。
しかし、涅槃は一無所知(=全く何も知らない事)ではなく、涅槃を証悟するという事は、涅槃を覚知しているのである。
この種の状況が生まれる場合、それは ”有分に落ちた” のである。
有分に落ちるという事が発生するのは、禅修行者が禅修の業処への定力が、いまだ深さも厚さも、強固さも、足りないが故である。
(6-13につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>