<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
念根
仏陀は言う:
”Satiñca khvāhaṃ、bhikkhave、
sabbatthinkṃ vadāmi. ”
”比丘たちよ。私は念は一切に適合すると言う。”(注42)
念根はつねに適切である。
ちょうど塩が、すべての菜肴に合う様に、または総理が、国家のすべての大事を処理するのに、適合する様に。
なぜであるか?
というのも、念は禅修する心の帰依処であり、保護所であるが故に。それを帰依処であると言うのは、それは心を助けて、これまで到達した事のない、また了知したことのない、殊勝で高等な境地に、到達せしめるが故に。
もし念がないならば、心はどの様な殊勝な、または非凡は境地を達成することもできない。
念は心を保護し、かつ、心をして、禅修の所縁を忘れない様にせしめる。
禅修行者が観智でもって、念心所を分析する時、念はつねに禅修の所縁を保護する役目と、禅修行者の心を保護する役目を受け持つために、出現している事が分かる。
念が、一切の処において適用されるのは、それがその他の四根を、バランスする事ができるが故である。
もし、念がないならば、禅修行者は、禅修の業処を上手に覚知する事ができない。それはすなわち、彼はその禅修の業処を覚えておく事ができない為に、一座毎に、改めて再開しなければならなくなる事を、意味する。
こうしたことから、念を強化する近因は、堅固な想(thirasaññā)であると言える。
もし、入出息似相に対して、堅固な想を擁しているならば、念力は強くなり、そうすれば、あなたは禅修の業処を非常によく覚えておく事ができるし、かつ諸根もまた、バランスを保つ事ができる:
信と慧、定と精進、および定と慧(+をバランスするのである)。
<注42>仏陀は《相応部・火經》(Aggi Sutta)の中において以下の様に言う:ある時ある場面では、ある種の覚支は適合するが、しかし、ある時には、それらが不適合な場合もある。しかしながら、念は一切の時において、適合する。
(6-15につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著(原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>