正月の休みに、我が精舎に帰省して来ている、次男との会話。
次男「2月に、ブータンに、行ってくるよ」
母「え!いいなぁ。でも、ブータンは、旅行者から入国税など色々取るので、物入りでしょ?」
次「いや、仕事なんだ。大学の調査隊の一員として行くので、お金はかからないよ」
母「お母さんは2月、台湾でリトリート」
次「vipassanaだね」
母「サマタ・vipassanaだよ」
「初心者が息等を見ている瞑想はサマタで、rūpakalāpa(=素粒子)の無常・苦・無我が観れる様になったらvipassana」
次「???」
カメラマンの彼は、インドによく行く。
その時は、ゴエンカvipassanaセンターで座るらしい。
故に、瞑想はなんでも vipassana だと思っている。
初心者が概念(息や光など)を所縁として、それに専注している時の瞑想はサマタ、縁起と名色分別のレベルは、サマタとvipassanaの混合、rūpakalāpaの無常・苦・無我を観るのが vipassana だと説明しても、今の彼は、混乱するかもしれない。
息子よ。
母が、アビダルマや、サマタ・vipassana に関する文献を翻訳して、多々、WEBに載せてあるから、何時の日にか、胸にふつふつと、ダンマに関する疑問が湧くとき、それを読みなさい。
それが、母からあなたに贈る事のできる唯一の遺産、法のプレゼントです。
(現在海外出張中の長男も、座禅・瞑想します。不公平にならぬ様、念の為←母心~笑)
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>