<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
彼は以下の様に誤解する:
「以前、この種の光明が生起した事はない。私は道と果を証得したに違いない。」
彼は非道を道として執着し、非果を果として執着して、その結果、正道から乖離する。この種の光明が、人をして正道から乖離させるが故に、それは煩悩の一つとして数えられる。
この段階において、この種の光明が出現するのは、非常に普通の事なのである。
しかし、智慧の光に関して、人々は多くの疑問を持つのである:
智慧には光があるのか?
名法には光があるのか?
これらの疑問に関して《大疏鈔》は以下の様に解説する:
vipassanobhāsoti vipassanā cittasamuṭṭhitaṃ utusamuṭṭhānañca bhāsuraṁ rūpaṁーー
「観禅の光明は、観禅の心と、自身の身体の相続の内の時節によって引き起こされる、極光明色(=極めて光り輝く明るい色)である。」
では、観禅の光明とは何か?
上の文章では、二種類の原因に言及している:
(一)観禅心
(二)禅修行者自身の色相続流の内の、時節の火界と呼ばれるもの。
禅修行者は、修行者が、色業処の修習を実践する段階において、以下に説明する二種類の項目を、非常に簡単に理解することができる:
(2-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版
中国語版→日本語訳出翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>y