<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
『仏教徒信仰的是什麼』から抜粋翻訳
(P24)
仏道を証悟してから後初めて、世の人を度するべきだという人々の思想は、原始の仏教の教義の中には出現しない。
この種の思想は、人間すべてが医者になって、己自身を治療する以外に、他人をも治療しなければならないという主張と同じであり、それは余り現実的な考えではない。
もし、人が病気したならば、資格のある医師に診てもらうべきであるのに、上記の思想は、己自身が医学を完璧に修めた後に、己自身を医療せよと言っている様なものだ。
この世界では、全員の人間が医師になる必要はない。もし、人間が全員、医師にならねばならない、というのであれば、一体誰が病人であるのか?
同様に、もし人々が全員仏陀になるべきである、というのであれば、一体誰が誰を度するというのであろうか?
当然のことながら、誰かが医師になりたい、と思うのは自由である;医学を極める為に、彼には智慧が必要であり、勇気が必要である。
同様に、誰もが仏道を完成させなければならないと、強迫してはならない。
もし、ある種の人々が仏陀になりたいというであれば、それは構わないが、仏陀になるには勇気が必要であり、智慧が必要であり、個人の利益を犠牲にし、種々の仏法と戒律を修学し、己自身の欲望を克己して、仏道を完成させなければならない。
こうしたことから、阿羅漢道を通して、涅槃を証悟することは利己的な行為であるとは言えない。
もし、阿羅漢道を通して涅槃を証悟する事を利己的な行為であると言うのであれば、仏陀の祝福を受ける事はできないであろう。
仏教には三種類の崇高な理想があるーー正覚の仏、独覚の仏と阿羅漢である。
しかし、すべての人々が、この崇高な理想に到達することができるとは限らない。それは、すべての科学者がアインシュタインであったり、ニュートンであったりすることは不可能であるのと同じである。
しかし、彼らは、己自身の能力に従って、この世間の発展に尽くす事はできる。
(B-1 につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
<『仏教徒信仰的是什麼』から抜粋翻訳/釈果道追善供養翻訳
中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>